発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

モノサシのたくさんある場所、あなたの価値について

僕には何の価値もない

僕は人生で何度もこう思いました。僕には何の価値もない、生きていてもしょうがない。友人関係はうまくいかない、異性には相手にされない、クラスでハブられている、仕事はうまくいかない、起業は失敗した、約束を守れなかった、成果を出せなかった、フットサル一つ上手にやれない、みんなの楽しい合コンを楽しめない、躁鬱病みの発達障害者だ…。

人生を通じて、四季折々の理由で僕は「自分には価値がない」と決めつけてきました。この「自分には価値がない」という断定は、ある意味僕の人生の原動力でもあったと思います。僕になんて何の価値もない、だから死んでもいいのだ、むしろ死にたいのだ。それは時に異常な行動力をもたらし、このアップダウン地獄みたいな人生を生み出しました。

さて、そんなわけで「私にはなんの価値もない」と考えていらっしゃる方、多いと思います。「そんなことないよ」なんて言っても心はピクリとも動かないですよね。わかります。僕もそうでした。では、今日はモノサシについて考えてみようと思います。

 

あなたを測るモノサシは何か

さて、あなたに価値がないと仮定します。

では、あなたに「価値がない」と判定するモノサシはどんなものでしょうか。実際、これについて考えてみるとかなり不思議な感じがします。例えば、「発達障害躁鬱病みだから価値がない」と考えると、「病気の障害者には価値がない」という話になり、あなたは本当にそう思っているでしょうか。「思っている」という人もいるかもしれないですが、実際本心からそんなことを思っている人はそう多くもないでしょう。少なくとも、ツイッターで堂々と発言するとみんなに怒られる話ですよね。「俺は気合の入った差別主義者だ」って人はともかく…。

クラスでハブられているから、というのはもっと簡単で「クラスの人気者には価値があり、クラスの陰キャには価値がない」という発想ですが、クラスの人気者に本当に価値ってあると思いますか?僕は正直、過去に遭遇したクラスの人気者たちが「面白いやつ」であったことは少ないと思います。僕にとって面白いやつは、いつもクラスの端っこにいました。

そんなわけで、人間の価値を測定するモノサシってのはなんだかよくわからないんですね。大抵の場合、ほとんど言語化されず「とにかく俺に価値がないんだ」という思い込みがグチャグチャになって思考を覆いつくしているものだと思います。

そして、僕自身が「俺には何の価値もない」に最も強く縛られていたのは、高校生までの時期でした。そこでは人気者がいて、僕は嫌われ者でした。いわば、「高校」という部族の中で僕は負けていたので、自分に価値はないと決めつけていたのです。

でも、それって単なる部族カルチャーですよね。僕の高校は底辺だったので、ルックスが良かったり面白かったり運動ができたりするやつが人気モノでした。話題はテレビとかそんなものばかり。勉強ができるとか、本をたくさん読んでいるとか、面白い趣味を持っているとか、古い映画に詳しいとか、そういう価値観はほとんどなかったと思います。本当に話し相手に苦労したのを覚えています。(もちろんクラスの日陰にはそういう相手もいて、何人かは友人がいましたが)

 

部族のモノサシ

人間はあらゆる場所に部族を形成する生物です。そこには非言語的な序列が形成され、順位が上の人間がいれば下の人間も必ずいます。これは羊の群れと同じで、そういう生物なんだ、と考えるしかないと僕は思ってます。

でも、場所が変わればモノサシも変わる。例えば、ツイッターで人気のインテリキャラを僕の高校に投げ込んだら、一瞬でクラスの日陰者にジョブチェンジすることは間違いありません。そもそも話が理解できないからです。

あなたに「価値がない」というのを一面的真実としても、それは「モノサシ」と「あなた」の相性が非常に悪いから、という可能性は大いにあります。これは、会社なんかでもいえることです。「転職したら世界観が別物になった」というのはよくあることですよね。

しかし、部族から逃げ出せないならそこで流通している「モノサシ」がどんなものなのか、見極める必要があります。この部族はどんな価値観で人間を測っているのか、ジャンプ力か、吠え声の大きさか、それともタテガミの立派さか、そういうところから見極めてやらないないと、部族の中で上手に価値を獲得することはできません。

エリマキトカゲの群れならば、エリマキを上手に広げてやる必要があるわけです。エリマキトカゲより大分頭の悪い風習を持った部族は結構存在します。それはそれで意外と慣れると居心地がよかったりするのですが。エリマキを広げればいいならエリマキを広げればいいですよね、それだけです。

「俺はダメだ何の価値もない」というのは分析のすべてを放り出した状態です。ひたすらに苦しむだけで何の生産性もありません、そんな苦しみを味わう必要はきっとないんだと思います。とはいえ僕自身も結構「俺なんて所詮はダメだ…」と部屋の中を転げまわって埃を掃除していることはあるんですが…。

 

モノサシのたくさんある場所

「多様性」という言葉があります。これは、いわゆる「いろんなモノサシが流通している場所」という意味だと考えていいでしょう。人間は多様性という言葉を結構肯定的に使いますが、現実的に「多様性」を好む人間というのは正直…僕はほとんど見たことがないです。

しかし、「多様性」のある場所はあります。まず、第一に都会でしょう。人のたくさんいる場所にはそれだけたくさんの部族があります。それだけたくさんのモノサシがあるといえるでしょう。あるいは、人の多い場所、人の流動的な場所です。逆に、人間が少なく流動的でない淀みみたいな場所では当然部族カルチャーは煮詰められ、強化されます。あれは結構怖いですね…。

自分がどうやら汎用性のあるモノサシでは高く評価されないタイプである、と感じたときは、なるべく人が多く流動的な場所を目指すことをオススメします。どこかに、「あなたみたいな人間を待ってたんだよ!」という場所があるかもしれません。僕も何度かそういうことがあって、そんなときは「生きててよかった」と思ったものです。のちにひどい目にあったこともありますが…それはしょうがないね…人間は悪い。

 

モノサシについて考えてみましょう

さて、そんなわけで今日のお話はこんなところになります。「自分には何の価値もない」と床を転げていても、床のホコリが減って服が汚れるくらいの結果しかありません。「価値がない」と断定するからにはモノサシがあるはずです。そのモノサシがどんなものなのか考えてみましょう。部族について考えてみましょう。

ちなみに、この「部族のモノサシ」について考えられなくなった状態を「部族を内面化した状態」と言います。ブラック企業の従業員などはしばしばこういう状態に陥っていますね。あれはとてもつらい状態なので、なるべく避けるようにしましょう。部族と自我はしばしば見分けがつかなくなります。

そしてもう一つ。あなたは何に価値を感じ、何を目指し、何を善しとする人なのかも考えてみましょう。部族とは全く関係のない、あなた自身の価値観について。「部族のカルチャーを理解し、適応しよう」という気持ちは大事です。でも、それと同じだけ「自分は何に価値を置くのか」ということを考えることも必要です。

どうか、影も形も見えないモノサシで自分を裁いて、苦しみのどん底まで落ちていくことだけは避けてください。僕も頑張ります。いや、ホントに油断すると落ちるので怖いんですよこれ。あなたの価値を定めるモノサシは、あなた自身の手にあるべきです。

やっていきましょう。