信用される障害者について
本が売れました
本が思ったよりずっと売れています。ありがとうございます。正直なところ「一生懸命書いたのは確かだけど、こんなに売れるとは思っていなかった」というのが正直なところで、ここまで来たらどこまで売れるのか見てみたいという気持ちになっています。とはいえ、もう増刷も終わりかもしれないしそういうのって結局期待し過ぎたり入れ込み過ぎたりすると辛くなるので「本当に有難かったです。ありがとうございました」くらいのバランスが良い気がしています。
謎のアマゾン張れない病ですが、よくレビューを読んで嬉しくて泣いてます。役にたたなかった皆様には申し訳ありません。次はもっと役に立てるものを書けるよう頑張ります。
さて、これで、「発達障害者」に「作家」とか「ライター」の肩書が正式についたことになります。何者かになれたんでしょうか、よくわかりません。自分が何になりたかったのか、もうだいぶわかんなくなってしまった。誰かの役に立ってお金を稼いで、あるいは稼げなくても一日一日を生きていきたいな、と思います。
そんなわけで「立場に見合った行動をしろ」という話が出てきました。
僕は、ツイッターくらいでしか好きに発話することが出来ません。社会では当然ですけれど、自分を抑圧して生きています。その僕がありのまま言いたいことを言ったら本が出たのがtwitterという場所、あるいはブログという場所なのですけれど、最近は色んなことがあって僕自身すっかり嫌気がさしてしまいました。
本を出してから起こったこと
色んなことがありました。
もちろん、嬉しいことありがたいことの方がずっと多くて感謝と喜びを大事にしたいのだけれど、「これは許せない」と自分自身が感じることも色々ありました。もちろん、僕だって外で働いている時は「これは許せない」と思っても、合理的に判断して怒らないというのはよくあることです。怒って得をすることって、ある種のパフォーマンスとしてしか無いと思いますし。パフォーマンスをするためには冷静でいなければいけない。
でも、僕は障害特性なのかあるいは性格の問題なのかわからないけれど、やはり「これは納得がいかない、許せない」と思ったら発言をしたい人です。それが得にならないことは承知で、言いたいことを言いたい。僕にとってインターネットというのは、そういう意味で救いでした。僕が僕のままで言葉を聞いて貰える場所なんてここしかなかったと思います。
でも、この「救い」もそろそろ終わりだなと感じています。
やっぱり、合理的に動かなきゃいけないし自分自身であることが非合理的な時は、自分を殺して振舞わねばならない。
これは、「ポリシーとしてやりたくない」と考えていました。というのも、僕は発達障害者でこの通りの人間だ。それを隠して合理的に振舞うような人間の本が読みたいか?本が売れた途端に言動を社会的最適化するような人間の本を読みたいか?という疑念は僕の中に強くありました。僕は個人的にそういう人があまり好きではありません。
でも、これは僕が「そういう人」の立場をわかっていなかったというのがよくわかりました。望む望まないにかかわらず、社会的露出が増えれば行動や言動は社会的に最適化するしかない。そうじゃないと、ダメージもストレスも手間も等比級数的に増えていくことになります。これは現実問題としてしょうがないことなんだな、と思いました。
信用される障害者
発達障害特性を揶揄されることが多くなりました。「ツイッターで反論する」ということをしても、多くの人のTLには不快な断片が流れていくだけだというのはわかります。そして、それを承知でやってしまう僕の行動が「気持ち悪い」という意見が結構届きます。そりゃあ、気持ち悪いだろうなと思います。
でも、それが障害特性だとして僕は発達障害者なのだからしょうがないじゃないか、そもそも僕は発達障害者である自分を否定したくないんだ、文章で表現している時くらいはこのままの自分でいたいんだ。そういう場所が一個くらいあってもいいじゃないか、という本当に泣きたい気持ちがあります。
でも、僕は文章を書いてお代を頂戴しているので、これは単なる甘えなのだと思います。少なくとも、発達障害を持つ方の役に立つために文章を書き、多くの人に届け、自分自身が利益を得る(これはとても大事なことです)ためには、インターネット上でも、あるいは文章表現の上でも発達障害特性を一定コントロールしなければいけないんだろうな、と思っています。仕事ですからね。
信用される障害者であるために障害を克服せねばならない、とでもいうべきジレンマが起きているな、と思います。僕は僕自身を否定したくないし、多くの人も否定したくもない。でも、合目的じゃないのならそれは仕方がない。そんなことを最近決心しました。「納得できないものには反論する」という僕のポリシーは、お終いです。しょうがないと思っています。自分であること以上に欲しいものがあるのだから、自分を変えるよりしょうがない。諦めはつきました。
社会的合理化
僕の本は「社会的合理化」とでも呼ぶべき内容なのだろうと思います。それは「社会的合理化に過ぎない」と一歩距離を置いたうえで―「茶番」と表現したあれのことですーそれを行う。仕事術と銘打ったので、仕事の場ではそうしてみようという本でした。
さて、僕もこの通り書くことが仕事になってしまいました。では、やるしかないんでしょう。きっとそうなんでしょう。理解はできます、納得もできます。ただ、自分が自分であれる場所がなくなるというのが少し悲しいだけです。
僕はこれからもっと文章を書いて多くの人に読んでもらいたいと思っています。自分の居場所は、また新しく探したいところですね。今度はもう少しクローズな場所に居心地の良い椅子を見つけられたらいいなと思います。今まで一度も見つかったことはないけれど、一度も見つかったものがないものを探すのが人生だと思うので。
社会的合理化をやっていきます。
そして、きっとうまくいくと「あいつはニセ障害者だ」という誹りがまたやってくると思います。僕のある種の異常性は「納得」を産みだしていたところもあると思うので。その時は是非、「あいつは渋々方針を変えてたよ」と証言していただければ幸いです。
最近はバイクに乗るのが楽しいです。腰を痛めてしまったのも、やっと数キロのウォーキングが出来るくらいに回復しました。ランはまだ無理かな、という感じです。この1年の無茶ですっかりボロボロになった身体を、半年でなんとかもとに戻したいと思っています。あわよくば、ダイエット本でも書きたいという欲を掻いて、なんとか今日を生きていきたいです。
僕は幸福です、本当に想像もしなかった幸福が溢れんばかりに降ってきて、それを受け止めるために自分の形を変えなければいけないのはある意味当たり前のことなんでしょう。こういう時に便利な言葉がありましたね。
残念ながら人生は続く。やっていきましょう。
これはこないだ連れていってもらった江戸川です。ホンビノス貝とオキシジミが大量に獲れました。これから料理して食べます。いつもありがとうございます。