発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

お酒との付き合い方、依存のお話

お酒、好きですか?

最近僕はアルコールを自宅では(少なくとも独りでは)絶対に呑まないというルールを採用しました。というのも、生活が不規則になり独りで仕事をすることが増えましたので、「飲んでいい」となったら呑みながらでも仕事をしていいことになってしまいますし、そのような状態で自己をコントロールするのはおそらく難しいだろう、そういう風に思ったからです。僕は依存性物質に対する自分のコントロール力をとても低く見積もっているつもりですが、それでもまだ過信があるかもしれないとも思います。人生を酒で追い込んだことがあるくせに未だに酒を飲んでいるというのは、自分への過信そのものだと言われても仕方ありません。

とはいうものの、僕はお酒が嫌いではありません。誰かと楽しくお酒を飲み、程よい精神のほぐれ方を良しとする。これは酩酊物質ーいわゆるドラッグ全般ーに言えることなのですが、ドラッグを楽しむにはかなり努力が要ります。セッティング、体調のコントロール、量の加減、全てが意思の力なしには成り立ちません。当然ながらお酒もそうで、「誰と、どのように飲むか」はとても大事です。逆に言えば、そのようなコントロールが適切になされている状態で飲むお酒は、とても楽しい。人生を豊かにしてくれるものだと思います。酩酊の楽しさは意思の力と酩酊のバランスが適切に保たれている場合に限られるのです。

しかし、仕事の最中「飲んだら明らかに仕事のクオリティも効率も落ちる」と自覚しながら口に運んでしまうお酒はそういうものではありません。飲まない方が良いとわかりきっているのに飲んでしまうお酒は、そもそもセッティングが失敗しています。瞬間的にはアルコールの酩酊が楽にしてくれるかもしれませんが、酔いは必ず去るものです。酩酊が去り不快感と後悔だけが残るあれをなるべく体験したくない。そう思って、僕は「自宅で独りでは飲まない」というセルフルールを自分に課しています。

不規則な生活をしながら、自宅で長く文章を書き続ける。こういう状態ほどアルコール依存症に向いたコンディションはそうありません。当分はこれを続けていこうと思っています。

 

ADHDと依存

これは明確にエビデンスが出ていますので、そうなの?と思った方は是非調べていただきたいのですが、ADHDを持つ人は依存症に陥りやすいとされています。僕自身の経験としても、これはその通りです。僕自身も未だに禁煙は成功していません、アルコールを曲りなりにもコントロール下に置けたのは、僕自身がアルコールにあまり向いていなかったからだと思います。直感的にもわかるでしょう、衝動性が強く目の前のことにのめりこみやすい。しかも、スケジューリングや計画がヘタで先延ばし癖が強い。こういう性向を持った我々が依存に強いわけがありません。クッソ弱いです。

また、身近にある危険な依存性物質といえば睡眠薬なんかも筆頭例です。辛いことがあると、つい睡眠薬を多めに、あるいはアルコールと一緒に口に放り込んでしまう。そういう人も少なくないのではないでしょうか。はい、ツイッターで見覚えのある方もいるかもしれませんが、僕自身もやってました。今後は本当にやめようと思っていますが、それでもまたやっちゃうかもしれません。悪い言い方ですが、味を覚えてしまったので再発リスクはどこまでもつきまといます。精神的に袋小路に追い込まれた時、あれを5錠とウィスキーをショット3杯煽れば・・・みたいな気持ちになってしまうことは未だにあります。

また、僕自身がアルコールと睡眠薬を日常的に(それこそ仕事に行く前に)飲んでいた時期も恥ずかしながらありまして、そのせいで病院に叩き込まれた経験もあります。何故辞められた(少なくとも日常生活を曲りなりにもやれるところまで戻った)のか、正直言ってわかりません。つまるところ、僕は依存性物質に対して実質的に無力であるということを認めざるを得ないのです。

依存症になってからそれを治療する術については、もちろん僕にわかる筈もありません。僕は睡眠薬とアルコールの依存症を克服した経験があるわけではなく、たまたま何かの間違いでそこから抜けでただけです。しかし、長期的な依存を形成しなくて済んだのは本当に幸運なことだったと思います。あそこで人生が終わっていてもおかしくはなかったでしょう。少なくとも、僕は明確な希死念慮を持って飲んでました。

ADHDは、という主語を敢えて発達障害全般に拡大しますが、「そのようなリスクはある」ということを是非覚えておいていただきたいと思います。

 

文化と文脈が失われる

アルコール依存症の知人は、僕も結構多いです。精神的な疾病を持っていたり、あるいは発達障害を持っている人のアルコール依存症発症率は、間違いなく高いでしょう。そういうわけで、僕は結構そういう人たちを見てきた方だと思います。そして、アルコール依存が一定のレベルに到達して、そこから帰還できた人を残念ながら僕はまだ一人も見たことがありません。もちろん、連絡不能になったり消息不能になった人たちが僕の知らないところで恢復しているということはあり得るのですけれど。

ただ、アルコール依存に向かっていく過程の中で失われていくものについてはわかったことがあります。それは文化であり、文脈です。久しぶりに会う気のおけない友人と、お気に入りの店で旨い肴をつまみながら飲む。このような飲酒態度は、それほどアルコール依存症発生のリスクを押し上げません。(もちろん、ゼロではありませんが)そこにはお酒を飲む理由があり、楽しみがあり、整えられたセッティングがあります。いわば、良い酩酊に向かう意思が存在しているのです。

その反対が、自分以外誰もいない部屋で終わらない仕事に追い立てられながら、それでも飲む。こういう態度です。あるいは主婦が家事労働の合間に家族の目を盗んでキッチンで飲む。こういう態度です。なんとか精神の袋小路を打破したくて、アルコールと睡眠薬を口に流し込むことに文化があるわけがありません。

また、文化の欠損を加速させるのが貧困です。お金がなければ、必然的に飲むお酒は望んだものではなくなりますし、飲酒を行う場所や機会も選びにくくなる。とにかくアルコールが入っていればいい、どんな場所でもとにかく飲めればいい。こういう態度は、既にアルコール依存症の最初のマイルストーンを越えています。まぁ、ここまで書けば発達障害を持つ我々にとってアルコールというのがいかに危険なものかがよくわかると思います。

重症のアルコール依存症患者の周囲に文化が残っているのを、僕は見たことがありません。当たり前です。依存症が進めば周囲の人間も離れていくし、仕事も思うように出来なくなる。当然のごとく発生する負のループが、人間からあるいは飲酒から文化や文脈を尽く奪い去ります。全てが奪い去られたあとに何が残るか、少し考えてみてください。それは恐ろしいことです。つまるところ、人間は最終的に飲むために飲むようになるのです。これは、合法違法を問わずあらゆる酩酊物質で起こり得ることだと思います。

 

文化を持ち続けること

お金がなくても楽しく飲める。上等な酒ではなくとも、大したつまみはなくても、それでもあの飲酒体験は幸福だった。そういう思い出がある人も多いのではないでしょうか。僕も、友人の三畳間で青臭い文学議論を戦わせながら飲んだハイボールの思い出があります。そして、今でもその彼とは未だに三畳間で飲みます。30を越えたおっさんどもが母校の近くの安アパートで飲み交わすというのはなかなか滑稽な話ではありますが、僕はこの文化をとても大事にしています。

これはなかなか恥ずかしいことなのですが、僕にとって大学というカルチャーはかなり「文化」としてありがたいものなのです。そこには、とにかく金はなくても地位はなくとも名誉も成功もなくとも、それはそれでいいだろう。というカルチャーがありましたし今でもあります。もしかしたら実は無くて、我々があると思い込んでいるだけなのかもしれませんが、別にそれでも同じです。僕らにとってはあるんです。2人いれば文化は生まれます。

これは、いい年こいてマトモに食えてないおっさんたちの慰めの話です。「俺らは人生ヘタこいたがそこそこの大学を出てるんだぞ」という恥ずかしいとしか言いようのない自意識の発露でもあるでしょう。その通りだと思います。でも、2000円でベロベロに飲める居酒屋で「実は最近また文章書いてるんだよ、小説じゃないけど」「なんだ?純文学大好き借金玉が意地を曲げたかぁ?」みたいな話をしながら飲む酒には、意味づけが出来る。そういう酩酊は、救いになりえると思います。

文化は往々にして高くつきます。大好きなシェフのいるレストランで3万円のフルコースに合わせてワインを飲んでれば、余程の大金持ちでなければ上質な酩酊を確保できると思いますが、そんな体験が誰にでも日常的に与えられるわけではない。でも、それでも我々は日常を寿いでいかなければきっと生きていけない。だから、傍から見ればみすぼらしくて情けない文化であっても、大事にするべきだと思います。

もし、あなたが文化を持っていないというのであれば、インターネットは強い味方になります。お金も地位もなくても文化を形成している人たちの群れがたくさん観測できるでしょう。それは往々にして毀誉褒貶あるものでしょうし、あなたの好みに合わないかもしれない。でも、お金がなくて文化も無いところに酩酊だけがあったら、それは時に人を死に至らしめると思います。お金がなくても楽しめる、良い酩酊への意思を発生させる文化を手に入れておくと、致死率はぐっと低くなると思います。

良い酩酊への意思、忘れないでください。僕は酩酊自体はとても好きです。幾ら人生に害を及ぼしえると言われても、酩酊から発生する幸福を否定する気にはなれません。ただ、良い酩酊を発生させるための意思なしに飲もうとは思いません。思わないようにしたいです。すいません、嘘つきました。飲みたいこともあります。でも、なるべく旨くない酒は避けていきたい。そう思います。

 

でも、他人に何かを言う気はない

昔、アルコール依存症の方に「俺にアルコールなしで生きろっていうのどれだけ残酷な話かわかるだろ」と言われたことがあります。その通りだと思います。最早、寿ぐべき日常すら失われた人からアルコールを取り上げることが倫理的なことなのか、僕にはわかりません。それでも人生に希望を持て、なんて言えるほど強い人間でもないです。つまるところ、僕は往々にして他者の人生にアルコールほどにも関わることが出来ないからです。

極論を言うと、酩酊と依存の果てに死ぬのも一つの人生だと思います。実際、そうやって死んだ人間もいました。彼の人生を否定するほどの権利は僕にはありません。でも、どうせなら死なない方がいいとは思います。特に根拠は無いですけど。そして、依存症にならないように、なるべく旨い酒飲もうよって思います。酩酊が好きな人間ならわかってるだろ、酩酊ってのはそれ単体で成立するもんじゃねえんだと。セッティングと適切な摂取方法、つまるところ良い酩酊への意思がないと単なる毒だぞ、と。

この文章を読んでいる人、あるいは僕自身も含めて多くの人が依存症のとば口にいると思います。僕は、自分自身がそれなりに危険な位置にいることを結構自覚しています。来年当たり、回帰できない地点を越えている可能性だってそれなりにあると思います。でも、とりあえずなるべく旨いことやっていこうと。酒を飲むことに自分なりの意味づけをちゃんと行っていこう、そんな風に思ってます。

さて、20時30分。しかし、今日は体調不良で仕事の進みが芳しくもない。じゃあ飲まない。コーヒー飲んで、もう一仕事頑張ります。やっていきましょう。