発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

最近の借金玉、記事を書かせていただきました

無能の血反吐

new.akind.center

人生最大に書くのが苦しく、また同時に書く意義があったと思える文章です。本当に辛く、安定剤をザラザラ流し込みながら書きました。しかし、書いた価値はあったと思います。いうなれば「俺が悪かった」「俺が無能だった」そういう結論に至るための長い長い余談なのですが、それでも教訓はあると思う。

つまるところ、僕は失敗者なので「こうすれば成功する」は書けません。「こうやったら失敗する」ですら怪しいものです。でも、「こうやったら失敗した」に関しては書けます。そして、それが誰かの参考になって落とし穴を回避するのに役立てば、本当に幸いです。これは非凡な話でも珍しい話でもニュースバリューのある話でもありません。よくあるつまらない話です。でも、大抵の悲劇はよくあるつまらない話です。

つまるところ、僕はよくあるつまらない人生を生きています。非凡な失敗をすることすら出来ない凡庸な人間です。そういうことを認められるのが三十代になった今になってのことだったというあれですが、まぁそのあれです。読んでいただいた皆さんの人生にちょっとでも役に立てば本当に幸いです。

ちなみにニューアキンドセンター様は僕の納品したクソ長くゴリゴリの原稿をそのままノーカットで掲載する気持ちの入ったメディアです。すごいと思うマジで。僕がこの原稿送られたら「半分に切り詰めろ殺すぞ」って言ってしまう気しかしない。是非、ご一読ください。

 

www.onecareer.jp

あと、最近書かせていただいた記事がこちらです。こちらは打って変わって、「気楽に行け、大丈夫だ」という気持ちを込めました。就職活動、そろそろ佳境ですね。でも、大丈夫です。だって僕だって生きてます。30過ぎて人生はノープラン、これまでに試みた全ては敗れ去った。それでも生きてます。

昔、おっさんたちに「おまえくらいの若さで何絶望したようなこと言ってるんだ」みたいなことを言われて反感を持ったことは僕もあります。若かろうが歳を食っていようが絶望というのはそれぞれに絶望ですし、オンリーワンでナンバーワンの辛さが誰しもある。そういう時は僕をあざ笑うといいと思います。何もかも失敗した場所からもう一回ガチャガチャやっていこうとしているおっさんを盛大に笑ってください。

僕が何とか生存できている程度に社会は甘い。舐めていいです。少なくとも、「社会は厳しい、死ぬしかない」となるには新卒で就職活動をしている皆さんは若すぎます。とりあえず一休み、どうにもならないならまずは休む。そういう対処法を覚えておくのが本当にオススメです。「休む」という選択肢は常に最悪ではありません。ベストではないかもしれませんが、ベターではあり得ます。

さぁ、残念ながら人生はまだ続く。やっていきましょう。

雑談の技術について② レベル2、目的性と問題点の把握

雑談の目的、計り知れない利益

はい、そういうわけで前回に引き続いて「雑談の技術」第二段、レベル2以降のお話になります。今日の話の枕は「雑談の目的」です。というのも、雑談が生まれつき上手な人はそういうこと考えなくていいと思うんですよ、特に何も意識せず楽しく雑談して人間関係も上手くいく、それが理想です。しかし、残念ながら「雑談が苦手」となった場合、それを何とかするには目的意識が必要です。楽しくないことを目的もなくやるのは、大抵の人にとってとても難しいものですから。

そういうわけで、雑談の「目的」というのは、つまるところ「雑談をすることで利益を得る」ことになると思います。「こいつはコミュニケーション可能な人間だ」と相手に思わせることですし、あわよくば好意を勝ち取ることですね。「あの人は話しやすくて感じの良い人だ」と思ってる相手にはちょっと親切にしたくなりますし、一手間かけてやるか、という気持ちになりやすい。10分だけ、自分の時間を相手のために使ってやろうという気持ちを他者に起こさせることに成功すれば、どれだけのことが上手くいくか、たやすく想像がつくと思います。

仕事みたいな人間関係は、周りの人間がちょっと親切にしてくれるだけで全てのことが大変円滑に回るようになります。5人の同僚が一日10分だけ自分のために時間を費やしてくれるとしたら、それによって得られる利益は「計り知れない」と言っていいレベルになるでしょう。ちょっとした仕事のノウハウや慣習は、自力で習得するより教えてもらった方が遥かに楽です。そして、僕たちは「ちょっとした仕事のノウハウや慣習」がわからなくて全てを台無しにしてしまう人たちではないでしょうか。我々が犯してきた多くの失態におけるそれなりの比率が、「誰かが十分だけ親切にしてくれたら回避できた」ものだったのではないでしょうか。

syakkin-dama.hatenablog.com

こちらのエントリで書かせていただいた内容とも重なってくると思います。しかし、「雑談」はより本質的な部分です。というのも、前述のエントリで「見えない通貨」と表現した、「親切にしてもらったらお礼をする」というような人間関係における不可視の交換原則が、「そもそも機能するか」「決済は可能か」というような点を、人間は「雑談」から推し量っているところがあると思います。コミュニケーションのテストみたいなものですね。

雑談というコミュニケーションテストに不合格だった場合、人間は往々にして交換をしてくれなくなります。ちょっとした親切を与えてくれなくなり、些細な(しかし時に重要な)情報を渡してくれなくなります。そういう状態を回避して、可能な限り得をしていこうじゃないか、そして上手いこと人間の中でやっていこうじゃないか、それが「雑談の目的」になります。いうなれば、コストを払って利益を得るそれだけのお話です。

また、「それでも他人に合わせた雑談はしたくない」という選択肢もアリだと思います。その場合は別の戦略性が必要になってくるのではないでしょうか。こちらの戦略は、例えば「人間関係の中で図抜けたパフォーマンスを発揮し続けて、自分とコミュニケーションをとる価値を認めさせ続ける」みたいな方法が代表例だと思います。自分のおかれた状況と特性に合わせて、適切な方法を選択していただければと思います。僕のブログは「たった一つの正しいやり方」を目指すものではありません。「こういうやり方はどうだろう?」という当事者からの提案です。ご参考になれば幸いです。

 

発達障害起因(っぽい気がする)の失敗要因を潰せ

ADHD-喋りすぎる、止まらない

 これは僕の例です。僕は、長らく雑談を「自分の喋り芸で他人を傾聴させれば勝ちのゲーム」だと思い込んでました。そのために「上手に喋るための本」とか「スピーチの技術」みたいな自己啓発書を読み漁りました。「どうやら努力の方向性が完全に間違ってるっぽい」と気づいたのはわりと最近のことです。

 で、「会話をターン制として認識してみよう」とか、「相手と自分の喋る量を等分になるよう調整を試みてみよう」とか色々やってきました。結果からいうと、これらの試みは全て失敗しました。会話は単純なターン制と認識するには複雑過ぎますし、発話の量の調整も会話しながら意識するにはタスクとしての負荷が高すぎる。前回のエントリでご紹介した「レベル1」ぐらいが、僕が会話のために自分に課せる負荷の最大値でした。これ以上はどう考えても無理だ、レベル1だってぶっちゃけしんどい。

そこで、このような意識改革を行いました。「雑談というのは、最小限の発話で最大限相手の発話を引き出したら勝ちのゲームである」という認識に切り替えたのです。要するに、自分の発話量は最小限に抑え込み、相手に「気持ちよく喋らせる」ことに特化する。この意識を持って雑談に臨み、工夫を繰り返すうちにかなり大きな変化が現れました。これまでは、「自分の発話を相手に聞かせる」という楽しさが会話のモチベーションでしたが、「相手に気持ちよく喋らせる」というのはいうなれば会話の主導権を相手に意識されないままに握るということです。これはこれでやってみると面白いのです。

「喋りすぎる、止まれない」という悩みはこの意識を持つだけで、かなりの変化が見込めます。相手の発話を引き出す細かいテクニックの前に、この意識を持つことを試みて欲しいです。目的のあるところに技術はついてきます。「聞き上手になろう」では意識として弱い、もう一歩踏み込んで「相手に喋らせる」まで意識を高めるのが大変おすすめです。かなり劇的に変化すると思います。

 

ASD-共感力の弱さ、形式的同意の下手さ

 前回のエントリで「不同意」は雑談においてあまり得策ではない、というお話をしました。「今日は良い天気ですね」という発話に対して「暑いです」と返すのは、相手のポジティブな「良い天気」という発話に対して否定を加えるということで、あまり感じのよい対話にはならないのです。

しかし、これは僕にも拭いがたくある性向です。相手の発話に共感できないと、「NO」を突きつけたくなってしまう。そして僕は世界の多くのものに共感できない偏狭な人間なのです。「わかるわかるー」とか「すごーい」みたいなことを言えないのです。おそらくここを読んでいる人もこういう応答、大嫌いでしょう。しかし、皆さんもお察しのとおり、あれはコミュニケーションとしてかなり正解です。

では、それが出来ない時にどうすればいいか、これはもうシンプルで「そうですねぇ」「確かに」「ありますねぇ」「ああーなるほど」などの共感的な相槌を機械的に発声して、とりあえず何でも「同意・共感」で受けるのをテンプレ化すればいいのです。「すごーい」って言えないなら、自分が発声しても違和感のない「同意・共感」の相槌をコレクションすればいい。これはコミュニケーションが得意な人を観察すると容易に採取できます。何故なら、彼らがやってることがまさにそれだからです。5個あれば十分です。

そして、人間というのは「とりあえず同意・共感が得られた」までが重要で、その先に否定が来てもわりと気づきません。何故なら、大抵の人間は相手の話なんかそんなに聞いてないからです。例えば「いい天気ですねぇ」ときたら「いやー、本当にいい天気ですね、クソ暑いです」と切り返せばいいわけです。これは実質的に不同意ですが、大抵の人は不同意と認知しません。形式的な同意と共感さえそこにあればそれでいいんです。

原理原則を考えれば、人が何かを発話したらそれに対するレスポンスが同意であれ不同意であれ、コミュニケーションは成立していると考えられるでしょう。しかし、多くの人間は同意・共感が形式的に得られたことをもってコミュニケーションが成立したと看做しています。そういうルールなら話は早い、そうすればいいだけです。ボールをキャッチするということは、とりあえず同意・共感の「身振り」を見せることだと認識してしまえばいい。雑談における応答は、とにかくYESから始める。その後にNOという内容が来るとしてもまずはとにかくYESで受ける。これだけで完全に十分です。

ボールが飛んできたら、YESと書かれたミットで受ける。それ以上のことは何も考える必要がありません。これで儀礼的な雑談の大半はしのげます。さぁ、ミットに大きくYESと書きましょう。雑談は所詮形式的な儀礼です、儀礼としての様式美さえ守っていればそれでいいのです。

人間のコミュニケーションプロトコルが「コミュニケーションが成立している」ではなく、「同意・共感が形式的に成立した」という原理の下に成り立っている点さえ把握できれば全く問題ありません。これは本当に解決するのでやってみてください。NOで受けたら揉め事になったことが、実質的に同じ内容を発話していてもとりあえずYESで受けるというだけで全く問題なくなるのが観察できると思います。

 

余談、「とりあえずYESで受ける」を利用したテクニック

 ちなみにですが、この「とりあえずYESで受ける」は女性(と一部の男性)に関してちょっと難しさがある点は否定できません。というのも、この「とりあえずYESで受ける」を利用して、女性にゴリゴリ迫っていくタイプの男がわりといるからです。男女を問わず自分の要求をネジ通す時の基本テクニックとさえ言えると思います。

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A「Bさん、イタリアン好き?」

B「イタリアンは大好きです」

A「そっか、麻布に美味しいイタリアンのお店があるんだけど、ラム肉は食べれる?」

B「食べられます、美味しいですよね」

A「そっか、じゃあ7月の最初の土曜日は彼氏とどっか行ったりするの?」

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女性の皆さん大体覚えがありますよね。「殺すぞ」って思ってる人もいると思います。いやぁ、こうして文章書いてみると本当に「殺すぞ」って感じしますね。僕はモテないのであまり縁がなかったのですが、やられたら相当ムカつくだろうなと思います。

これは巧妙に「土曜の夜にイタリアンを一緒に食べに行く」に向かって会話を誘導してるわけです。「イタリアンが好きか嫌いか」という質問にはイエスと答えるしか普通はありません。しかし、この時点でドアに足がねじこまれているわけです。

で、最後の「土曜の夜は彼氏と」もテクニックです。本当に彼氏と予定があっても、やや立場が上の男性相手に「土曜の夜は彼氏と過ごします」とは伝えにくいですし、「彼氏はいません」とか「土曜の夜は会いません」みたいな答えを返すと、「じゃあ行こう」に向かって更に足を深くねじこまれます。しかも、「彼氏とどっかに行ったりするの?」という質問の形を取ることで、「土曜の夜は友人と会います」みたいな返答も封殺しようと試みているわけです。

女性は共感的なコミュニケーションを重視する傾向が、一般に男性より高い気がします。自然、「とりあえず同意・共感で受ける」という形式的なマナーの束縛が強い人が多い。それを利用したテクニックなんですね。しかも、普段「共感と同意を返す」のテンプレでコミュニケーションをとっている人ほど、咄嗟に「共感と同意を返さない」という選択肢が取りにくい。雑談では滅多に必要にならない選択肢ですからね。普段やってないことはなかなか出来ないわけです。

でも、今この文章を読んで考えるとどこで「否定・不同意」を返せばいいのか、しかも角が立たないのかって大体イメージ出来ますよね。グイグイ来る男をひっぺがすテク、覚えておいて損はないと思います。ちなみに、このテクニックは商売人も交渉でガンガン使いますし、僕も使います。「最近どう?忙しい?」って聞かれたら、「忙しい」以外に返答はない、というお話ですね。雑談で布石を打って、自分の目的に向かってゴリゴリ導くテクニックはあります。対策はしましょう。これは乗せられるとマジで大損こきます。「いやぁ、忙しいですけど~さんのお仕事ならなるべく頑張らせていただきますよ!」

 

今日はここまで

はい、思ったより今日もゴリゴリの内容になってしまいましたね。本当は実地での会話テクニック、「単語拾いアンサー」なんかも紹介しようと思ってたのですが、とりあえずこの辺にします。今日の内容も皆さんの役に立てば何よりです。

さて、最後にちょっと補足というか冒頭の内容の強調なのですが、僕のこのブログは「それをやれ」という強制でも、あるは「これがたった一つの正しいやり方だ」と主張するものでもありません。しかし、経験から一般化されたノウハウである以上、やはり僕の主観性が強く出ますし、どうしても押しは強くなってしまうと思います。

しかし、あくまでも「参考にしてください」という気持ちで書いています。ある程度距離をとって、「こういうのもアリかな?」くらいの目で見ていただけると大変幸いです。今後ともよろしくやっていきましょう。

 

 

雑談の技術について、キャッチボールが楽しめない僕らのためのお話①

雑談が苦手だ

そういう人は多いと思います。ADHD傾向の人あるいはASD傾向の人にはそれぞれの苦手さがあるでしょう。僕はADHD傾向の「衝動的に喋ってしまう、喋りだしたら止まらない」といかにもASD的な「理屈重視、感情・共感の軽視」の両方を併せ持っておりまして、「雑談」にずっと苦労してきました。というのも、ツイッターの僕を見ていると容易にわかると思うのですが、僕が気持ちよく喋っていると気づいたら「独演会」になってるんですよね・・・。もちろん「独演会」をやった結果、その場にいた皆さんが「いい話を聞けた」と認識してくれれば問題はないんですが、実際のところそう上手くもいかないのが現実でして。しかも、相手の感情への共感性も薄いので、まぁあまり良い結果にはならないことが多かったです。

ADHD傾向の強い方、特に多動性と衝動性の前に出ているタイプの人にありがちなことですが「喋りだしたら止まらない」これは本当に厄介です。結構いますよね、こういうタイプ。独演会をやってるか、あるいは会話からはぐれて靴の先を眺めて時間を潰しているかどちらかしかない、そういう人生を送ってきた人は結構多いのではないでしょうか。僕自身もこの典型例だと思います。

そういうわけで、人生のある時期まで僕の友人は、僕のこの性向を気に入ってくれる人たちだけでした。あるいは僕の止まらない喋りに割り込んで会話の主導権を奪い取りに来るような「強い」コミュニケーションを好む人たちです。そういう人間たちが集まるコミュニケーションの場があったのはとても幸福なことでしたが、社会に出たらもちろんそうは行きません。

このエンドレスに口から流れ出す言葉を制御できるようになったのは、実はそう古いお話ではなくて、二十代も半ばに入ってからです。というのも、会社を経営するようになると様々な人とコミュニケーションをとるのが仕事になってしまいまして、「雑談」というものから逃げられなくなりました。しかもその相手は往々にして自分より遥かにキャリアも実績も上の他社の経営者、あるいは担当者ということになります。なんとかせなあかん、が発生したわけです。

 

社長になったら雑談地獄だった

これは、会社を経営して本当に痛感したのですが、商売というのは「買うほうが偉い、金を払うほうが偉い」という世界観ではありません。海のものとも山のものとも知れない、20代の創業社長と好き好んで取引したい人はそれほどいないのです。アポが取れてさぁ打ち合わせ、という段になったら限られた時間のうちに「私はそれなりにきちんと会話が出来て、信用に足る人間です、お金もちゃんと払えます、あなたの商品を売ってください」というアピールをしなければなりません。ここで失点するとあからさまに対応が雑になったり、あるいは連絡が返って来なくなったりします。お値段も高くなりかねません。コミュニケーションコストの高い相手と取引するのは面倒なのです。

また、売るときは更にシビアです。これは「営業」という概念ですので特に言うまでもないことですよね。商品説明をして、お客さんが気に入ったら買ってくれる。「営業」がそういう牧歌的なものではないことは皆さんご存知だと思います。営業をする時にもやはり「雑談」はどうしても必要になります、いやもしかしたら「俺は商品説明と売り込み以外一切喋らない、個人的な話は一切しない」みたいなスタイルでめっちゃ売ってる営業マンとかも存在するかもしれませんけど、それでも基本的には「雑談力」が求められるのは間違いないと思います。

そういうわけで、社長をやっていた数年間は本当に色々な人と喋りました。取引先各社、そして縁の出来た各社の経営者や担当者、仕事をお願いする業者、商品を売り込みに行く販売先・・・まさに雑談地獄です。また、人間というのはイベントごとが好きなので(僕は嫌いですが・・・)飲み会やらパーティーやらもわりとあります。そういった場の雑談とは「お互いの値踏みしあい」です。好感が持てるか、あるいは持てないか、話が通じるか通じないか、金はどの程度持っているか、どの程度の能力があるか・・・そういうことを会話の端々から探り合うのです。

「こりゃコミュニケーションの方法論を抜本的に変えないと死んでしまうぞ」と心から思いました。努力もしました。苦節の数年を経て、現在は僕も多少雑談能力がマシになったと思います。何せ、経営上のお話って衝動的に語ると情報漏洩とか起こしかねないですし。そういうわけで、その体験から身に着けた技術論のお話を今日はさせていただこうと思います。

 

キャッチボールが楽しめないみなさんと雑談レベル1

ところで、みなさんは父親とキャッチボールをしたことがありますか?僕はありません。僕の父親は子供と遊ぶタイプではなかったので、何かをして遊んで貰った経験というものがほとんどないです。だから、僕は未だにキャッチボールが出来ません、あんなカタいボール投げ合うの怖くないですか。そもそも、あれ楽しいんですか?ボールを投げて、キャッチする。ボールを投げて、キャッチする。どこに面白みがあるのか未だにわからない。

しかし、雑談の最も基礎となる部分はこういうところだと思います。僕があなたに向かってボールを投げる、あなたはそのボールを受け取って投げ返す。ここまで出来れば、とりあえずキャッチボール合格です。コミュニケーション可能な人間であることが確認できました、ということになります。内容は別に何だっていいんですね。例えばこんな感じです。

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A「おはようございます」

B「おはようございます」

A「いやぁ、いい天気ですね(話題の提示)」

B「本当ですね(同意)、今年はカラ梅雨になるんですかねぇ(話題の提起)」

A「雨が降らないのはありがたいけど(同意)、あんまり降らないとそれはそれでねぇ(話題の提起)」

B「水不足は色々大変ですからね(同意)」

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こんな感じです。この会話の内容自体に有用な情報はほとんどないと思いますが、それでもこの会話が初対面の二人の間に成されたものだとすると、かなり重大なやり取りが行われていると言えます。

Aが発話したのに合わせて、Bはまず同意を示しています。その上で連想される話題を提起して、「Aと会話したい」という意思を示しています。それに対してAは「雨が降らないのはありがたいけど」という形でBへの同意と話題を引き継いだことを提示した上で、「あんまり降らないとそれはそれでねぇ」で更に話題の提起を行っています。それに対してBは再度同意を示しています。会話のキャッチボールが成立していますね。

例えば、お隣さんとこの会話をしたら「マトモそうな人だな」という印象を持つでしょう。挨拶をすれば挨拶を返してくれる上に基本的な話は大体通じる人だ。不快な物言いもしない。次回道ですれ違ったらまたちょっと話しかけてみようかな?と思えるかもしれない。このようにして人間同士の基本的な相互承認が発生するわけです。逆に

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A「おはようございます」

B「・・・おはようございます(小声でうつむきながら)」

A「いやぁ、いい天気ですね(話題の提起)」

B「暑いです(不同意)」

A「暑くなりましたねぇ(同意)、雨も降りませんし(話題の提起)」

B「そうですね(同意)」

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これはちょっと難しい雰囲気かな、という例だと思います。先ほどの例と比較するとわかると思いますが、ボールを投げているのはAのみですね。Bは全くボールを投げ返していない。もちろん「BはAと会話したくなかった」ならこれでいいと思います。皆さんが「事を荒立てたくはないけれど、仲良くする気は一切無い」みたいな相手にする対応って大体こんなもんだと思います。しかし、「BはAと仲良くしたいと思っていた」ならやはり多少問題が発生します。

また、「いい天気ですね」にいきなり「暑いです」を返すのは、同意というより不同意に近く、あまり感じのいい応対とは言いにくいでしょう。その上、話題の提起が帰ってこなかったので、Aは「暑い」という話題を引っ張って無理やり話題の提起として扱うしかなかった。ボールが返ってこないと、こういった形で無理やり会話を繋ぐ必要が発生してしまいます。これは結構やる側としてはしんどい。立ち去れないタイプの雑談でこれをやられると結構苦労しますよね。では、少しマシな例を。

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A「いやぁ、いい天気ですね」

B「暑いです。(不同意)夏は苦手で・・・(話題の提起と不同意の理由説明)」

A「暑くなりましたねぇ(同意)、今日はまだ気温上がりそうですね(話題の提起)」

B「そうですね(同意)、汗だくです」

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これだとだいぶ感じがいいですよね。「ああ、暑いの苦手なんだな」という感じで理解が発生すると思います。同意と話題の提起のテンプレートをこなしているだけで、この程度の距離感の雑談なんてのは凌げてしまうわけです。だから、おっさんは「いい天気ですねぇ」とか「雨は嫌ですねぇ」みたいな話をしてくるわけですよ。

またこの程度の深さの雑談において「不同意」はあまり良い結果にならないことが多いです。「いい天気ですね」とポジティブな口調で言われた時に「暑いです」というネガティブな切り返しをするのは、最後の例のように理由説明を伴わない限りちょっと感じが悪くなると思います。基本的には「雑談」は共感的であるに越したことはありません。共感的に振舞うのが苦手な皆さんはこういうところから、「とりあえず同意する」クセをつけておくのを推奨します。「いい天気ですね」と言われた時に「良い天気ではない」と思ったとしても、とりあえず「そうですねぇ」から入るに越したことはないんです。

雑談レベル1まとめです。同意→連想される話題の提起、のループだけ頭に入れておけば大丈夫というお話です。あとは元気に挨拶しましょう、なるべく否定はしないようにしましょう。これでとりあえず、他者と「あの人はちゃんと話が出来る人だ」という相互承認を形成できる筈です。この程度の雑談は、要するに「テンプレをちゃんとやれるか」の確認作業に過ぎません。ボールを投げたらちゃんと受け取って投げ返してくれた、ラリーも数回問題なく続いた。これだけで、人はそれなりに人を信用するものなのです。

 

「くだらねぇ」と言いたい気持ちはわかる

「で、これ何が楽しいの?」という気持ちはわかります。僕も正直言ってくだらないと思います。でも、これが出来ない人間が信用されるのって本当に難しいんですよ。繰り返しますが、この程度の距離の雑談なんてのは基本的にテンプレの繰り返しです。難しいことは何一つありません。快活に挨拶して、相手が提起した話題に共感を示す、あるいは同意して、連想される話題を提起して返す、それだけの作業です。(そして、適宜のタイミングで話題の提起を止めて同意で話を切る。この間合いだと3ターンもやれば十分です)

でも、「これが可能である」ということを示しておくだけで、様々なことが楽になります。具体的に言うと、隣人トラブルなども起こりにくくなるでしょう。

僕の経験上ですが、隣人トラブルを無限に起こす皆さんはこの雑談レベル1が出来ない人が圧倒的に多いです。「あいつは感じが悪い」という印象をひっくり返すのはそう簡単なことではありません。とにかく「感じのいい人」として認識されていて損なことはそれほどないですから、このレベル1だけは確実にこなすことを心から推奨します。それだけで、人間が1段階やさしくしてくれるはずです。

正直に言いますと、僕は人生において長らくこのキャッチボールが大変苦手でした。なんでそんな内容の無い会話をしなければならないんだと思っていましたし、愛想を振りまくなんてのも得意ではなかったです。ボールを投げた、受け取った、投げ返した。これだけが成立すればいいタイミングで、いきなり剛速球投げるタイプの人間でした。しかし、明確にそれは損をするんですね・・・。「あいつは会話の儀式的なキャッチボールが出来ない」と認識されると、人間は恐ろしく冷淡になります。「話せない奴」に対して、人間は本当に厳しい。

型を覚えれば出来ることですので、機械的にやっちゃいましょう。出来れば笑顔も添えておくとなおよし。今日はレベル1なので基本的なお話ばかりになりましたが、正直言って僕がこのレベル1を習得したのは20代です。「もしかして俺ちょっと怪しいかな?」と思った人は、是非一度テンプレの見直しをして、相手の投げた球をしっかり受け止め、受け取りやすい球を返す。それを心がけて欲しいと思います。雑談というのはつまるところ相互承認のための儀式に過ぎません。テンプレ通り機械的にこなして、「感じのいい話せる人」という評価を勝ち取りましょう。

久々に続きものになって恐縮ですが、よろしくお願いします。次回はもう少し難度の高い話をやっていきましょう。

お酒との付き合い方、依存のお話

お酒、好きですか?

最近僕はアルコールを自宅では(少なくとも独りでは)絶対に呑まないというルールを採用しました。というのも、生活が不規則になり独りで仕事をすることが増えましたので、「飲んでいい」となったら呑みながらでも仕事をしていいことになってしまいますし、そのような状態で自己をコントロールするのはおそらく難しいだろう、そういう風に思ったからです。僕は依存性物質に対する自分のコントロール力をとても低く見積もっているつもりですが、それでもまだ過信があるかもしれないとも思います。人生を酒で追い込んだことがあるくせに未だに酒を飲んでいるというのは、自分への過信そのものだと言われても仕方ありません。

とはいうものの、僕はお酒が嫌いではありません。誰かと楽しくお酒を飲み、程よい精神のほぐれ方を良しとする。これは酩酊物質ーいわゆるドラッグ全般ーに言えることなのですが、ドラッグを楽しむにはかなり努力が要ります。セッティング、体調のコントロール、量の加減、全てが意思の力なしには成り立ちません。当然ながらお酒もそうで、「誰と、どのように飲むか」はとても大事です。逆に言えば、そのようなコントロールが適切になされている状態で飲むお酒は、とても楽しい。人生を豊かにしてくれるものだと思います。酩酊の楽しさは意思の力と酩酊のバランスが適切に保たれている場合に限られるのです。

しかし、仕事の最中「飲んだら明らかに仕事のクオリティも効率も落ちる」と自覚しながら口に運んでしまうお酒はそういうものではありません。飲まない方が良いとわかりきっているのに飲んでしまうお酒は、そもそもセッティングが失敗しています。瞬間的にはアルコールの酩酊が楽にしてくれるかもしれませんが、酔いは必ず去るものです。酩酊が去り不快感と後悔だけが残るあれをなるべく体験したくない。そう思って、僕は「自宅で独りでは飲まない」というセルフルールを自分に課しています。

不規則な生活をしながら、自宅で長く文章を書き続ける。こういう状態ほどアルコール依存症に向いたコンディションはそうありません。当分はこれを続けていこうと思っています。

 

ADHDと依存

これは明確にエビデンスが出ていますので、そうなの?と思った方は是非調べていただきたいのですが、ADHDを持つ人は依存症に陥りやすいとされています。僕自身の経験としても、これはその通りです。僕自身も未だに禁煙は成功していません、アルコールを曲りなりにもコントロール下に置けたのは、僕自身がアルコールにあまり向いていなかったからだと思います。直感的にもわかるでしょう、衝動性が強く目の前のことにのめりこみやすい。しかも、スケジューリングや計画がヘタで先延ばし癖が強い。こういう性向を持った我々が依存に強いわけがありません。クッソ弱いです。

また、身近にある危険な依存性物質といえば睡眠薬なんかも筆頭例です。辛いことがあると、つい睡眠薬を多めに、あるいはアルコールと一緒に口に放り込んでしまう。そういう人も少なくないのではないでしょうか。はい、ツイッターで見覚えのある方もいるかもしれませんが、僕自身もやってました。今後は本当にやめようと思っていますが、それでもまたやっちゃうかもしれません。悪い言い方ですが、味を覚えてしまったので再発リスクはどこまでもつきまといます。精神的に袋小路に追い込まれた時、あれを5錠とウィスキーをショット3杯煽れば・・・みたいな気持ちになってしまうことは未だにあります。

また、僕自身がアルコールと睡眠薬を日常的に(それこそ仕事に行く前に)飲んでいた時期も恥ずかしながらありまして、そのせいで病院に叩き込まれた経験もあります。何故辞められた(少なくとも日常生活を曲りなりにもやれるところまで戻った)のか、正直言ってわかりません。つまるところ、僕は依存性物質に対して実質的に無力であるということを認めざるを得ないのです。

依存症になってからそれを治療する術については、もちろん僕にわかる筈もありません。僕は睡眠薬とアルコールの依存症を克服した経験があるわけではなく、たまたま何かの間違いでそこから抜けでただけです。しかし、長期的な依存を形成しなくて済んだのは本当に幸運なことだったと思います。あそこで人生が終わっていてもおかしくはなかったでしょう。少なくとも、僕は明確な希死念慮を持って飲んでました。

ADHDは、という主語を敢えて発達障害全般に拡大しますが、「そのようなリスクはある」ということを是非覚えておいていただきたいと思います。

 

文化と文脈が失われる

アルコール依存症の知人は、僕も結構多いです。精神的な疾病を持っていたり、あるいは発達障害を持っている人のアルコール依存症発症率は、間違いなく高いでしょう。そういうわけで、僕は結構そういう人たちを見てきた方だと思います。そして、アルコール依存が一定のレベルに到達して、そこから帰還できた人を残念ながら僕はまだ一人も見たことがありません。もちろん、連絡不能になったり消息不能になった人たちが僕の知らないところで恢復しているということはあり得るのですけれど。

ただ、アルコール依存に向かっていく過程の中で失われていくものについてはわかったことがあります。それは文化であり、文脈です。久しぶりに会う気のおけない友人と、お気に入りの店で旨い肴をつまみながら飲む。このような飲酒態度は、それほどアルコール依存症発生のリスクを押し上げません。(もちろん、ゼロではありませんが)そこにはお酒を飲む理由があり、楽しみがあり、整えられたセッティングがあります。いわば、良い酩酊に向かう意思が存在しているのです。

その反対が、自分以外誰もいない部屋で終わらない仕事に追い立てられながら、それでも飲む。こういう態度です。あるいは主婦が家事労働の合間に家族の目を盗んでキッチンで飲む。こういう態度です。なんとか精神の袋小路を打破したくて、アルコールと睡眠薬を口に流し込むことに文化があるわけがありません。

また、文化の欠損を加速させるのが貧困です。お金がなければ、必然的に飲むお酒は望んだものではなくなりますし、飲酒を行う場所や機会も選びにくくなる。とにかくアルコールが入っていればいい、どんな場所でもとにかく飲めればいい。こういう態度は、既にアルコール依存症の最初のマイルストーンを越えています。まぁ、ここまで書けば発達障害を持つ我々にとってアルコールというのがいかに危険なものかがよくわかると思います。

重症のアルコール依存症患者の周囲に文化が残っているのを、僕は見たことがありません。当たり前です。依存症が進めば周囲の人間も離れていくし、仕事も思うように出来なくなる。当然のごとく発生する負のループが、人間からあるいは飲酒から文化や文脈を尽く奪い去ります。全てが奪い去られたあとに何が残るか、少し考えてみてください。それは恐ろしいことです。つまるところ、人間は最終的に飲むために飲むようになるのです。これは、合法違法を問わずあらゆる酩酊物質で起こり得ることだと思います。

 

文化を持ち続けること

お金がなくても楽しく飲める。上等な酒ではなくとも、大したつまみはなくても、それでもあの飲酒体験は幸福だった。そういう思い出がある人も多いのではないでしょうか。僕も、友人の三畳間で青臭い文学議論を戦わせながら飲んだハイボールの思い出があります。そして、今でもその彼とは未だに三畳間で飲みます。30を越えたおっさんどもが母校の近くの安アパートで飲み交わすというのはなかなか滑稽な話ではありますが、僕はこの文化をとても大事にしています。

これはなかなか恥ずかしいことなのですが、僕にとって大学というカルチャーはかなり「文化」としてありがたいものなのです。そこには、とにかく金はなくても地位はなくとも名誉も成功もなくとも、それはそれでいいだろう。というカルチャーがありましたし今でもあります。もしかしたら実は無くて、我々があると思い込んでいるだけなのかもしれませんが、別にそれでも同じです。僕らにとってはあるんです。2人いれば文化は生まれます。

これは、いい年こいてマトモに食えてないおっさんたちの慰めの話です。「俺らは人生ヘタこいたがそこそこの大学を出てるんだぞ」という恥ずかしいとしか言いようのない自意識の発露でもあるでしょう。その通りだと思います。でも、2000円でベロベロに飲める居酒屋で「実は最近また文章書いてるんだよ、小説じゃないけど」「なんだ?純文学大好き借金玉が意地を曲げたかぁ?」みたいな話をしながら飲む酒には、意味づけが出来る。そういう酩酊は、救いになりえると思います。

文化は往々にして高くつきます。大好きなシェフのいるレストランで3万円のフルコースに合わせてワインを飲んでれば、余程の大金持ちでなければ上質な酩酊を確保できると思いますが、そんな体験が誰にでも日常的に与えられるわけではない。でも、それでも我々は日常を寿いでいかなければきっと生きていけない。だから、傍から見ればみすぼらしくて情けない文化であっても、大事にするべきだと思います。

もし、あなたが文化を持っていないというのであれば、インターネットは強い味方になります。お金も地位もなくても文化を形成している人たちの群れがたくさん観測できるでしょう。それは往々にして毀誉褒貶あるものでしょうし、あなたの好みに合わないかもしれない。でも、お金がなくて文化も無いところに酩酊だけがあったら、それは時に人を死に至らしめると思います。お金がなくても楽しめる、良い酩酊への意思を発生させる文化を手に入れておくと、致死率はぐっと低くなると思います。

良い酩酊への意思、忘れないでください。僕は酩酊自体はとても好きです。幾ら人生に害を及ぼしえると言われても、酩酊から発生する幸福を否定する気にはなれません。ただ、良い酩酊を発生させるための意思なしに飲もうとは思いません。思わないようにしたいです。すいません、嘘つきました。飲みたいこともあります。でも、なるべく旨くない酒は避けていきたい。そう思います。

 

でも、他人に何かを言う気はない

昔、アルコール依存症の方に「俺にアルコールなしで生きろっていうのどれだけ残酷な話かわかるだろ」と言われたことがあります。その通りだと思います。最早、寿ぐべき日常すら失われた人からアルコールを取り上げることが倫理的なことなのか、僕にはわかりません。それでも人生に希望を持て、なんて言えるほど強い人間でもないです。つまるところ、僕は往々にして他者の人生にアルコールほどにも関わることが出来ないからです。

極論を言うと、酩酊と依存の果てに死ぬのも一つの人生だと思います。実際、そうやって死んだ人間もいました。彼の人生を否定するほどの権利は僕にはありません。でも、どうせなら死なない方がいいとは思います。特に根拠は無いですけど。そして、依存症にならないように、なるべく旨い酒飲もうよって思います。酩酊が好きな人間ならわかってるだろ、酩酊ってのはそれ単体で成立するもんじゃねえんだと。セッティングと適切な摂取方法、つまるところ良い酩酊への意思がないと単なる毒だぞ、と。

この文章を読んでいる人、あるいは僕自身も含めて多くの人が依存症のとば口にいると思います。僕は、自分自身がそれなりに危険な位置にいることを結構自覚しています。来年当たり、回帰できない地点を越えている可能性だってそれなりにあると思います。でも、とりあえずなるべく旨いことやっていこうと。酒を飲むことに自分なりの意味づけをちゃんと行っていこう、そんな風に思ってます。

さて、20時30分。しかし、今日は体調不良で仕事の進みが芳しくもない。じゃあ飲まない。コーヒー飲んで、もう一仕事頑張ります。やっていきましょう。

 

生活保護と賃貸物件の闇の話

不動産ネコチャンが帰って来ました

不動産ネコチャンが長い旅から帰って来て、情報を語り始めました。不動産ネコチャンはとても賢いネコチャンで、不動産業界を旅しては時々帰って来て、真偽不明の情報を置いて帰ります。そういうわけで、今日のお話は全てネコチャンのお話なので真偽は確定出来ません。多分にネコチャンの予測が含まれています。そういうわけで、そういう見方もできるかもしれない、程度のお話として読んでいただければと思います。

生活保護に関して、僕は「使う必要があるなら即座に使うべきだし、それは権利だ」という考え方を持っていまして、そりゃ税金払って暮らしてきたんだから生存がヤバくなった時には利用させてもらうだろ、というプリミティブな考え方しかない。だから、制度批判みたいなものをあまりする気はありません。

 

おうちがない

さて、生活保護を取るとなった時には色々な条件があります。その一つとして、住居の費用があります。1級地、東京都心なんかに関しては家賃の上限は53,700円まで。これの上に、管理費などを(保護費等から住居費とは別に、生活費から持ち出しで)6,300円払うことが認められています。管理費というのは様々な便宜をあれするための不動産業界のライフハックですので、実質的に「家賃は60,000まで」と考えていいと思います。ネコチャンに「管理費とは何か」と質問したら、「人類の知恵」と答えが返って来ました。

そういうわけで、身代丸ごと失って知人の家に身を寄せていたがついに知人も同居させてくれるのが限界に達し、何とか一人で暮らす必要があるとなった場合、まず自分の住民票のある市役所に出向いて「生活保護取らせてくれ、家も無いので住居資金をお願いします」と言うしかないわけです。そういうことは人生には結構ある。

すると、生活保護担当の方は大体「家がないならとりあえず困窮者のための施設があるからそこに入って、その後予算の範囲で自宅を探してね」ということを言うと思います。まぁ、自治体によって運用に結構幅があるので、あくまでネコチャンがそう言ってるだけなんですが。別のケースもあるかもしれない。ニュースでは、この段階で理不尽にシャットアウトするみたいなこともあるみたいですね。僕は遭遇したことがありませんが、起こり得るんだと思います。

ちなみに、新宿の場合住居確保の初期費用は279,200円、引越し代や生活用品のための初期費用(家具什器費)は別途支給、というルールになっているようです。なるほど、結構いい条件だなって思いますよね。いくら日本一クラスに地価が高い都心といえど、賃料6万円と、引越し資金28万弱があればおうちが見つからないということはないだろう。直感的にはそう思うと思います。何なら「多いんじゃね?」と思う方もいるかもしれない。僕は多いとは思わないですけど、それでもとてもありがたい金額に間違いありません。税金払ってきた甲斐があるなぁ、とは思える。

しかし、結論から言うと新宿区とか港区とかそういうハイな立地で、生活保護受給者が賃貸物件を探すのは結構難しい。ネコチャンはそのように主張しております。

 

高齢者と生活保護者お断りの壁

不動産ネコチャンはとても賢いネコチャンなので、不動産賃貸業が出来ます。不動産屋さんのためのサイトにアクセスして、上記の条件でお部屋を探してみたそうです。結果としては、「お風呂がついていて、住居費の上限に近い金額に妥当なお部屋は一つも見つからなかった」そうです。生活保護受給者というだけで、基本的には断られる。そういうところが大変強くある。まして、更に高齢者であったりすると受け容れてくれる物件はとにかく見つかりません。

大家さんには「高齢者と生活保護者はイヤだ」という気持ちがかなり強くあります。独居の高齢者は死亡リスクがあるし、生活保護者は経験的にトラブルを起こし易い。僕は「いや、家賃の財源は確保できてるし確かにトラブル率は高いかもしれないと思うけど、そんなビビるってほどか?人間なんてみんな死ぬし、それより空室の方が怖くないか?」という素直な気持ちを持ってますが、それでもやはり不動産業界にこの考え方は根強い。歴戦の猛者と呼べる業界人でも「高齢者と生活保護者は可能なら入居を避けたほうがいい」と主張する人は結構いますので、ある種の経験則があるのでしょう。

自分の所有する物件に住む人を選ぶのは家主の権利なので、これを否定するつもりはありません。それはしょうがないな、と思います。ここまではわりとニュースなんかでも言われてることですね。独居の高齢者が部屋を借りられないという話はメジャーだと思います。実際、かなり強烈に借りるのが難しいです。これについては本当に世知辛い話ですが、そうであるとしか言えません。年齢が嵩んできたら対策を打たないとダメだな、と思います。リスクが高い客だと認知されるということは、もし物件を借りられても高い賃料を取られるということです。残念ながら、資本主義世界は社会的信頼の低い弱者ほど余計な金がかかる仕組みになっています。

 

あれ、でも生活保護受給者歓迎ってカンバン掲げてる不動産屋あるよな?

はい。そろそろ「いや、今検索してみたけど、新宿区でも生活保護者も高齢者も受け入れるって表明してる物件いっぱいあるじゃん、専門の紹介サイトもあるし。それに、『福祉課』とか勝手に名乗って生活保護受給者にアピールしてる不動産屋も見た覚えあるぞ」みたいなご意見が届く頃だと思いますが、その通りです。

あるにはあるんですよ。実際、生活保護受給者かつ高齢者であってもとにかく住人を入れたい、そう考えている大家さんが新宿区に全くいないわけはありません。いくらブランド立地とはいえ、駅から15分みたいな築古物件などは通常客付けに四苦八苦していますし、生活保護受給者は収入がしっかり担保されているのでその点は安心とも言えます。お金を払うことが出来なかったり、あるいは払わなかったりした場合は役所と相談することも出来ます。ここまで全面的なお断りになるのは通常考えにくい。需要があるなら商売にする、それが資本主義ですから。そこに需要があるなら、リスクを加味しても儲かる仕組みとお値段を考えればいい。それだけのことです。

では、何故不動産屋さんが「ウチの管理する物件はこれだからみんな客つけてー」って情報を交換する集約サイト、いわゆるレインズですね(他にもあるけど)、に生活保護受給者歓迎の物件がほとんど載っていないのか。なにがなんでも生活保護者はお客さんにしたくないのか?でも、生活保護受給者でも入居させたい大家さんが存在しないわけないよな?実際、ネットで調べると募集してるところはいくつもあるよな?何故不動産屋さんの情報網にその物件が上がってこないんだ?

これは大きな謎です。さぁ、皆さん考えてみましょう。

 

世界の仕組み

家賃というのは自由に設定できます。そして、敷金礼金というのも自由に設定できます。お部屋を借りる際に、その気になれば礼金は3ヶ月みたいなことも不可能ではありません(そこまで露骨なことをやる業者は多くないと思いますが・・・)。そして、生活保護を受給する人は、先述の予算枠の中で物件を探しますが、この枠を全部使い切っても、あるいは可能な限り安く済ませても特段本人に損得はありません。余ったお金が貰えるわけでもありませんし。

そして、不動産屋さんは他社さんに自社の管理物件にお客さんをつけてもらった場合は、通常家賃一か月分の仲介料を払わなければなりません。(このお金は根源的には大家さんが出費するものです)これは商習慣なのですが、不動産オーナー、いわゆる大家さんは管理会社に自分の物件の管理をお願いし、お客さんを集めるための費用を管理会社に支払います。また、不動産賃貸には「広告料」(いわゆるAD)という概念が存在し、これは要するに営業マンに支払う仲介料の上乗せボーナスです。条件の悪い物件は「この物件に客つけた奴には通常の2倍(もっと多いこともある)の報酬を払うぞ!」というあれをして、なんとかお客さんをつけてもらうわけです。

大家さん⇒不動産管理会社⇒賃貸営業マン というお金の流れはわかってもらえたでしょうか。大家さんは、「広告料家賃2か月分出すから、なんとかこの物件にお客さんつけて」という感じで不動産管理会社にお願いします。不動産管理会社は、そのお金を使って「この物件に客つけてくれ!報酬はこれだけだ!」という告知を行い、営業マンを動かします。そして、営業マンは部屋を借りるお客さんをつけたらお金がもらえる。これが賃貸不動産業界の基本的な仕組みです。

カンの良い方はそろそろ勘付いたのではないかと思います。そう、管理会社にダイレクトにお客さんがやってきて「この物件貸して」と言ってくれれば、管理業者(あるいは大家さん)は他社の営業マンに仲介料を払わなくて済むのです。これは大家さんと管理会社さんの間の契約にももちろんよるのですが、例えば大家さんが広告料2ヶ月分を出す、と言った物件にいきなりお客さんが入ればその広告料は管理屋さんの丸ごと手残りになることもあるでしょうね。「広告料」であって預託金ではないですから。仲介料1ヶ月分、そして広告料2ヶ月分。この時点で、家賃3ヶ月分の儲けです。(もし管理会社さんが儲けをとらなかった場合は大家さんが儲かります)

そして、市場にほとんど物件が出ていない以上、生活保護受給者が賃貸物件を借りようと思ったら、自分の足で不動産屋さんを回るしかありません。待っていればお客さんが来るのに、余計な費用をかける必要はない。そういう考え方はありますよね。(もちろん、厳密には色々ルール的に問題あるんじゃない?というあれはあるのですが)

 

エクストラ・ボーナス

更に話は続きます。ここまで、「自社で直接お客さんをつければ仲介料を払わなくて済む分儲かる」「場合によっては大家さんから貰う広告料を総獲りすることもできるかもしれない」という不動産管理会社の旨みのお話をしましたが、まだ話は続きます。例えば、生活保護受給者が「お部屋貸して」とやってきたとき、ちょうど自社の管理物件にちょうどいいものがあった。そういう時、賢い人間はどうするでしょう。そう、「礼金0」の0を2に書き換えますよね。

この一筆で、お家賃5万の部屋なら10万円の純利益が発生するわけです。コストはほとんどゼロで。そして、もちろんお家賃は生活保護における住居費の上限めいっぱいに設定しますよね。だって、生活保護者にとって住居費は安く上げてもどうせ自分の手元には残らないお金です。礼金だってそうです。払ってしまっても懐が痛むわけではない。となれば、ここに問題は何一つ発生しません。その金額で借りるというお客さんがやってきたから貸した、それ以上でも以下でもない。

更に、生活保護受給者の住居確保には別途引越し費用や生活用品などの初期費用の支給もあります。この引越しなどをまとめて請け負って、上限目一杯の料金を請求して、どこかの引越し会社に下請けに投げればここでも利益が抜けます。賃貸と引越しはワンセットみたいな概念なので、不動産屋さんは通常引越し屋さんとも仲良しです。これは単純な足し算ですが、ここまでで「部屋を一つ貸す」という商売で通常の何倍の利益が取れるでしょうか?

もっと賢いことを考えると、不動産屋さんの情報交換サイトにおける通常の募集では「生活保護者お断り」、そちら側から生活保護受給者が来た時はシャットアウト。そして、管理会社である自社に直接生活保護受給者がやってきた時は満面の笑顔で「どうぞどうぞ」。そんなことも出来るかもしれません。

 

537物件の闇と生活保護受給者というプラチナ顧客

さて、ここで話は不動産仲介サイト(レインズ)に戻ります。公開市場に僅かながら存在する、生活保護者向けの物件は大抵、「家賃53,700円、管理費6,000円」です。そして、礼金は2ヶ月要求されています。そして、これは主観評価で恐縮なのですが、明らかに賃料に見合うお部屋ではありません。しかし、一般的な不動産屋さんはこのサイトからお客様に合うお部屋を見つけて紹介するので、「あなたの条件で借りられる部屋はここしかない」と言う他ないのです。

「そうかここしかないのか」と思ったお客さんは、「生活保護受給者が相場通りの部屋に住もうなんて無理なのか」という諦めを持つ他ないと思います。僕はこういう物件を53,700円なので537物件と呼んでます。(これは東京都心部の1等地における家賃扶助の上限額です)明らかに、このスタイルのビジネスを狙って展開している業者、あるいは大家さんも存在しているようです。お風呂のないこの立地のこのお部屋にこの賃料とこの礼金か・・・という物件は存在しています。普通の人は間違いなく借りない物件です。でも、出しているということは借り手がつくこともあるんでしょうね・・・。

そう、ここまで書けばわかるとおり、生活保護受給者というのはうまいことやるととても儲かるお客さんなのです。自社管理の物件に他社の営業マンの力を借りずダイレクトに入居してもらえば、本当に儲かる。つまり、生活保護受給者の選択肢は二つです。自分に物件を貸してくれる物件を管理している不動産屋に当たるまで探すか、もしくは相場から大きくかけ離れた理不尽なお値段の部屋を粛々と借りるしかありません。

スマートフォンやPCを使いこなしてインターネットにアクセス出来る若い世代は、多少はマシです。ちょっと検索してみたらわかるとおり、ダイレクトにインターネットから生活保護受給者のお客様を拾おうと動いている人がいっぱいいることがわかります。こちらにアクセスすれば、とにかくマトモな部屋を手に入れることは叶うかもしれません。しかし、高齢者なんかは絶望的ですね。足で探す体力もないでしょうし。こうなると、そもそも部屋を借りることすら出来ず、施設から出られない。そういうことも起きるでしょう。

 

地域を変えればいいんじゃないか?

はい、それはその通りです。賃貸不動産の需要が大きい都心部に限った現象だと思います。少し地方に出れば、「生活保護者だろうが高齢者だろうがとにかく今すぐ客をつけたい!」という大家さんの絶対数が増えるので、結果的に相場は落ち着きます。場所によっては争奪戦になっていることだってある。しかし、生活保護という制度は住所を持っていることが受給の条件なんですね。ということは、他の地方に転居して生活保護を受給しようと思っても、とりあえず家を借りないと話にならないわけです。知人の家に転がり込む形ではダメです、世帯収入という概念があり血縁に関係なく同じ家に住んでいれば「世帯」になりますから。(コメントでご指摘あり、例外的に同居のまま「世帯分離」が認められることがあります。ただし、条件面がありますので各自お調べください)

生活保護受給者の存在数に自治体ごとの偏りが出る理由がわかりますよね。生活保護をとりやすい地域というのは、「自治体が生活保護をくれる地域」ではなく、生活保護の受給条件を整え易い地域なのです。平たく言えば、とりあえずドヤに小銭を払って住所を確保し、住民票を発行し、生活保護を受けにいけばいいわけです。しかし、新宿区や港区ではそれは難しい。おうちを失って身を寄せた先が新宿区の知人だった場合、生活保護の受給にはクソ高い壁が立ちふさがるわけです。高齢者にとっては特に。自治体だって、新たに生活保護受給者の住人を受け入れたいとは思っていません。行政管轄の壁が立ちふさがります。もちろん、日本にいる限りは死ぬことはないでしょうが、困窮者が施設から出るのはとても難しくなるでしょうね。高齢生活保護受給者が、「生活を手助けしてくれる知人の近くに住みたい」と望んでも、それはなかなか叶わないでしょう。

とても世知辛い話です。また、これらの構造を的確に把握して正しく立ち回ることを困窮者に求めるのは無理にもほどがあります。途中で何もかもわからなくなって、パーンとなってしまう人も多いでしょう。抽象的な表現ですが。このような壁にぶち当たって、そのまま全てを放棄してしまう人というのは結構いると思います。

 

世界は厳しい

これはあくまでネコチャンのお話です。実際、ある程度間違っているところもあると思います。うがち過ぎた予想もあるかもしれません。しかし、そこに絡み合った人間の利害とその真ん中でわけもわからないまま翻弄される困窮者という実態は間違いなくあると思います。だからといって、法律の範囲で利益を求める不動産屋さんもあるいは大家さんも、別に必ずしも法に反することをやっているわけではないですし、完全否定することは難しい。そこに合法的な利益の道があるなら、貪欲にそれを求めるのは商人として当たり前のことです。従業員に給料を払うには儲けなければなりませんし。

自治体の間の壁、資本主義の壁、知識と情報アクセスへの壁、もちろん水際での生活保護受給を防ぐ有名なあれももちろん存在するでしょう。本当に問題がグチャグチャに絡み合っていて、「生活保護の受給なんて不可能だ」と主張する人が出てくるのも実によくわかります。実際、この文章における理解もまだまだ不足で、見えていない問題、あるいは見過ごしているものが多々あると思います。これは、問題のほんの一部に過ぎないでしょう。地域や状況によってのケースバイケース性も事態の悪化にどんどん拍車をかけています。

困窮者ほど、社会的弱者ほど多くの知恵とコスト負担を求められるというのは、資本主義の必然の帰結ではあるのですが、実に厳しいものです。僕に出来ることなど何一つないでしょう。ただ、この文章が読んだ人が何かを考える、手助けになれば幸いです。あるいは困った時に上手に立ち回る手助けになれば幸いです。

不動産ネコチャンは再び旅に出ました。また帰ってきたら知見をご報告させていただこうと思います。ありがとうございました、やっていきましょう。

 

※ブックマークコメントにて指摘があった点を太字にて追記、ご確認ください。管理費は、生活保護費から「持ち出しで」というニュアンスが伝わらなかったかと反省しております。尚、生活保護費「等」としたのは、収入がある状態で生活保護を受けることは可能であり(年金などが頻発事例)、保護費からの支払いとは限らない点を加味しました。

 ※id:iidacooi4 生活費を管理費として支払って、賃料に転嫁することに関しては地域性が高そうです。先日僕が役場でヒアリングしたときは、6300円までという話を聞きました。賃料が極めて高い地域では、例外的であることを承知しながら、実際的な都合からこの運用になっているのかもしれません。ただ、CWごとに見解の差がある可能性も高く、僕がヒアリングした担当者が実務的なミスを犯していた可能性もあります。「私の個人的な取材に基づけば認められているという発話があったが、実際のところは認められない可能性も高い」という点をここに追記いたします。僕もこちらの点に関しては、担当者に再度のヒアリングを実行します。(ご紹介の記事は通達へのリンクが死んでいたので今のところエビデンスが確認できていません、確認を行います)

この記事の内容は全て正しいとは限らない上、自治体ごと担当者ごとに実務的な差異はある可能性が高い点、加えてご留意願います。情報ありがとうございました。

生活保護受給の予定であることを隠して賃貸物件を借りることについては、僕の知識の範囲外です。可能であるとしても「可能である」と公言は出来ないですし、かといって現実的に住居が調達できない生活保護受給者がそれを実行するのを批判する気にもなれません。ノーコメントで。

※id:bottomzlife この記事は、基本的に「家なしの人間、即ちホームレス状態にある人間が生活保護を受けて住居を手に入れる場合」という話なので、基本的にはそのお話に該当すると存じます。僕の先日のヒアリングでも、「出る」というお話でした。ただ、例外的な話、あるいは実務上「出ない」ことも大いにあり得ると思います。その点、ご留意いただければと思いますし、「出る」と言い切れるだけの知識は僕にはありません。僕が行った実務の上では出ると提示された、というお話までです。

 

※id:bottomzlife 収入ゼロ家なしの状態から、支給されるお金を原資に住居を調達する場合、というケースのお話ですので、その点が伝わらない書き方であったなら申し訳ありません。不動産屋の立場としては、収入を申告する際は正直に行っていただきたい、例えば生活保護費と就業による賃金を、まとめて「収入」として申告されるのは避けていただきたい、というところです。ただ、それを「やる」方を否定する気はありません。ノーコメントです。実際、働きながら生活保護をもらっている人が、それを正直に不動産屋に申告した場合に不利益を蒙る、ということはありえると思います。その点については、本当に何も言えない。それを隠した人を責める気にもなれないけれど、立場としては肯定もできない、というところです。

id:bottmzlife身代丸ごと失って知人の家に身を寄せていたがついに知人も同居させてくれるのが限界に達し、何とか一人で暮らす必要があるとなった場合」という記述が本文中にございますので、ご確認ください。ただ、私の書き方が誤解を産むものであったかもしれない点は申し訳ないです。表現を工夫する努力は続けますのでご容赦ください。

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id:bottmzlife氏よりこのような指摘があった点を重ねて付記致します。私の文章への批判となっておりますので、ご参照いただければと思います。大変申し訳ありませんが、こちらに提示させていただくことを以って、応答とさせていただきます。あとは読み手のみなさまにご判断いただければと。

記事を書かせていただきました、あと前回のエントリの話

ニューアキンドセンター様で記事を書かせてもらいました

new.akind.center

ちょっと思い入れのある記事なのでブログの方でも告知させてもらいます。起業、「成功」とか「失敗」以前に、そもそもハメられていたというパターンが結構あるよね、というお話です。これ、ハメられた人がまずオフィシャルに話題にすることはないのであまり出てきませんが、「起業」「独立」とか「自由に生きる」とかそういう話が出てきたら、とりあえず眉に唾つけた方がいいと思います。

度々アキンドセンター様でお話させていただいている「出資者を選ぶ」という話、つまるところこういうことなんですよね。起業をする以上、出資者は出資した額を全て失うところまでしかリスクがありません。しかし、出資を受けた側は自分の人生と、人を雇えば他人の人生、更に事業の行く末についての責任を負ってしまうわけです。平たく言うと、辞めたくなってもそう簡単には辞められなかったりします。そういうわけで、社長というのは実にしばしば死んだり失踪したりするわけです。会社辞めるより人生辞める方が簡単だったんでしょうね・・・。まぁ、わかる。

僕が起業大失敗話をこうやってさせていただいているのも、つまるところ死なずに済んだからで、何故死なずに済んだかというと出資者が大変理解のある方だったという一点なんですよね。もう少しタチの悪い人からお金を引っ張ったら死んでたと思います。

syakkin-dama.hatenablog.com

こちらの記事も記憶に新しいですが、辛島さん元気にやってますか?辛島さんはとても素直で正直な方でしたが、その背後には人間の底すら知れない悪意を感じましたよね。でも、たぶんあれも違法じゃないと思うんですよ。(もしかしたら違法かもしれないけど)なんにせよ、起業とか独立みたいな世界に打って出るということは、どうしてもこのようなリスクを孕む話です。

リスクをゼロにすることは出来ませんが、後悔のないようしっかり考えて進んでください。ただ、起業とかの話になると「いざとなったら全部捨てて命だけは守れ」みたいな概念が通じなくなることがままあります。それこそ、親に借金の保証人のハンコつかせたりしたら「会社が潰れたら実家が売られる」みたいな話になるのもよくあることですし、会社名義の借金の保証人に大事な人をつけてたら代表取締役を辞めても保証人外せなかったりしますし。「最大どこまで失ってもいい」という線を引いて、その範囲内でリスクをとっていくなどが考えられるんですが、会社経営で金を必死で回してる時にそのラインを守りきれるかというのもとても難しい話です。

そういうわけで、創業初期に避けられるリスクは避けられるだけ避けて、明らかな罠に飛び込むことくらいは避けよう。その先は各自やっていきましょう。そういう世界観になります。元エントリで登場した悪魔のような出資者ですが、普通に実在します。こないだも「社長100人募集」みたいな求人広告打ってる会社ありましたよね・・・。そりゃ、100%出資で持ち株ゼロで社長やってくれる奴なんて欲しいに決まってる。

皆さん、良い人生を。

 

前回のエントリの話

syakkin-dama.hatenablog.com

このエントリの反響が大きく、賛同から批判まで実に様々な声が届いています。いろんな人に読んでいただけて大変ありがたいです。どうもありがとうございます。ところで、僕は「レール」というか「学校教育」にあまり良い感情を持っていません。本文を見ればわかるとおり、「辞めればよかった」という気持ちがとても強いです。

だから、レールから完全に離れてもやっていく方法について語るのがメインになってしまっていますが、「レールから離れない」、ストレスや苦痛を最小に留めながらレールを最大限利用するやり方というのも、もちろんありえると思います。そちらの方法論を書ける方はぜひ書いていただければ、ツイッターなどでご紹介させていただきますし、本エントリの学生さんにも参考にしてもらいたく思います。

こういう問題に唯一絶対の正しい答えというのは存在しにくく、ケースバイケースの色が濃いのですが、皆さんのご意見も是非伺いたいです。よろしくお願いします。そして、エントリに登場する学生さんは親御さんともコミュニケーションを取って「とりあえず休息をとろう」というフェイズに入りました。話はまだまだこれからで人生もまだまだこれからですが、いくらかでも力になれれば嬉しい、というところです。

 

いろいろありますがやっていきましょう

僕は僕で、この数ヶ月はかなり激動の数ヶ月だったわけですが、それでもまだやりたいことはいっぱいありますので、引き続きやっていきます。躁鬱は無事躁に突入して、身体が軽くなってきましたが、そういう時こそ危ないので注意していきます。

今後ともこのブログを何卒よろしくお願いいたします。やっていきましょう。

学校が辛いあなたのためのお話

とても辛い連絡が来ました

とにかく学校が辛くて辛くて仕方が無い。居場所もなく、自分はまるでいないものとして扱われている。時々かかる声はからかいや嘲りのみ。そして、発達障害ADHD)という診断も受けていて、二次障害の鬱も発病しつつある。学校に通い続けるのはもう限界かもしれない。死にたい気持ちも強くなってきた。そういう状況にある中学2年生の方からご相談がありまして、直接返すには少し内容が長くなり過ぎるので、こちらで応答させてもらいます。ついでに、同じような状況にある人にも届けばいいなぁと思います。

まず、なんですけど。とてもその気持ちはわかります。僕は中学校はまだマシでしたが、高校は完全にその状態で非常に辛かったことを覚えています。小学校も辛かったですね。グループを作る授業、体育、音楽の授業の共同演奏など本当に苦痛でしかないですよね。どこにも居場所がなく、授業中が一番気が休まる。そういう状態だと思います。寝たふりをするのも辛いものがありますよね。これから先修学旅行などもあるでしょうし、本当に辛いと思います。そして、中学校に通い続けることすら出来なくなりそうだという恐怖とも戦っている。本当に、本当に辛いと思います。

そういうわけで、精一杯アドバイスさせていただきます。

尚、ご連絡いただいた文面から見て、十分一般的な大人と同じだけの文章読解力がある方だと認識しましたので、子ども扱いはしません。一人の個人として、僕のお伝えできることをしっかり伝えさせていただきます。文章が少し堅苦しくて読みにくいかもしれませんが、そこはご容赦ください。

 

まずは学力のお話

 中学校に通わないデメリット

これが高校なら「辞める」という選択肢は大いにありです。大学入試は学力さえあれば突破できますし、大学にさえ入り込めれば高校中退が人生においてそれほど大きく不利になることはありません。要は、勉強さえしておけばいいわけです。しかし、中学校となるとそうもいかない。その上、調査書(内申書)という概念も絡んで来ます。これは地域差があると思うんですが、僕の出た中学校はA~Mの評価をつけるシステムで、僕はHでした。(平均評定2.7くらいですかね)

この調査書の評価が低いと、偏差値の高い高校が実質的に受けられなくなるんですね。(当日点一発勝負式などの例外もあったりもするけど)そして、この評価は学校を休みまくったり、提出物を出さなかったり、授業態度が悪かったり、あるいは小テストを受けなかったりするとびっくりするほど下がります。テストがオール満点でも3がついたりします。(しました)僕は中学校に半分程度しか登校しませんでしたが、結構酷い調査書の数字でしたね。

つまるところ、中学校を休み過ぎると高校入試にガツンとハンデを負わされるということです。そして、高校の授業内容、あるいは質というのは偏差値に比例して非常に大きく変化するようです。僕の通った高校の授業は、高難度の大学入試への対応は全く出来ないシロモノでした。そうなると、大学入試に措いて高校がむしろ足かせになるという事態が生じてしまうわけです。難関大学の合格実績がほとんど無いような高校には、そもそも受験に対応するカリキュラムが存在しません。こういうところに通っていると、無意味で無価値で低質な授業を受けながら、余剰の時間で大学入試対策をするという苦行が必要になってしまいます。

これはかなり厳しい仕組みです。ペーパーテストで測定される学力とは全く無関係に、中学教育に上手く適応出来なかった子どもにはハンデを負わせる仕組みになっているわけです。大変シビアな話になって恐縮ですが、中学の授業を多く欠席するということは、受験に措いて大変大きいハンデを負うことになります。私立高校だと、調査書の数字をあまり見ないところもあるとは聞きますが、これもコストという大きな問題が出てきます。とりあえず、これだけのデメリットがあるという事実は踏まえておく必要があります。

それでも行かないという選択肢もある

しかしもちろん、学校に通う苦痛が限界を超えている、ご相談をいただいた方の場合は発達障害の二次障害も出てきているということなので、限度を越えたら「通わない」あるいは「ガツンと休む」という選択肢もあるということを覚えておいてください。あなたの健康が第一です。とりあえず、心療内科には通われているということなので、お医者さんとよく話してみてください。もし、お医者さんがイマイチだと感じた場合はセカンドオピニオン’(要するに別の医者を試すということ)も検討してみるといいと思います。

僕の場合は躁鬱病双極性障害)でしたが、心の病気は一度重症化すると大変長引きます。ひどくなる前に休むのが何を差し置いてもベストです。その判断については、あなた自身が「これ以上学校に通うのは限界だ」と明確に感じたとき、そしてお医者さんが「休みなさい」と言った時のどちらかです。このどちらかにぶつかった時は躊躇いなく休んでください。もうだめっぽいと思ったら、何を差し置いても休んでください。

それこそ高校に一切通わなくても高卒認定を受けて大学受験資格を得ることは可能です。あなたのペーパーテスト上の学力にそぐわない高校に入学せざるを得なかったとしても、自力で勉強して大学目指すことも(多少めんどくさいけど)出来なくはありません。僕自身はタイミングを逃して移れませんでしたが、単位制高校という選択肢もあるようです。もちろん、お住まいの地域がわかりませんのでこれらの選択肢がどの程度採用可能かは予想できませんが、まぁぶっちゃけ大学入試なんて勉強すりゃ受かる。大丈夫だ。それよりあなたの健康状態の方がよっぽど大事だ。

勉強はしよう、絶対にしよう

 これは最後にとても重要なことですが、学校に通わないという選択は大いにアリです。しかし、勉強をしないという選択をすることは(体調が悪くて出来ない場合は別ですよ)絶対にお勧めしません。もし、ある程度の長期に渡って学校を休むという選択をされる場合は、自力で勉強を追いかけましょう。なんなら、追い越すつもりでやるといいと思います。受験用参考書でもいいですし、教科書を追ってもいいです。

学校を休むという選択をする以上は「自分で学ぶ」ということを身につけなければ、将来において非常に大きなハンデを負うことになります。特に、英語と数学はここで転ぶと先が非常に厳しくなります。僕もこの辺は大変苦労しました。逆に、「授業なんて受けなくても余裕じゃん」くらいの学習習慣をここで獲得しておけば、それは中学校を休まず卒業することより何百倍も大きな価値があります。

ポイントはたった一つです。中学校で登校拒否になろうが、高校を中退しようが、自分で勉強することさえ出来れば世の中なんとでもなるんです。少なくとも、大学入試までは。学校で6時間かけている学習は、つまるところ大した質ではありません。(まぁ、ものすごく偏差値の高い私立中学とか通ってる場合は別だろうけど)正しい学習習慣さえ身に着ければ、個人差はありますが2~3時間の学習で十分に追いつけます。そもそも、体育とか美術とか道徳とか受験には全くもってどうでもいい科目も多々あるわけで。

テストはそれなりに上位の点数を取っているということで、学校というシステムの中で学ぶ能力には問題がないようですので、もし学校を休むことを決意したら、少しずつで構わないですから「自分で学ぶ」ことをやってみましょう。公立中学の教育システムなんて、所詮学力ごちゃ混ぜの30人に均等に教える程度の質の悪い指導です。あなた一人でやる方がよっぽど効率が良いのは当たり前じゃないですか。

しかし、そこまで「自主学習」の力をつけるにはそれなりの努力が必要です。もし、学校をある程度の長期に渡って休むことを決めたのなら、必ずこれだけは身に着ける努力をしてください。(何度も言うけど、体調と相談しながらですよ)もしも、自力でそれが難しいと感じた場合は、親御さんが許すのであれば質の良い家庭教師や塾を検討してみてください。しかし、まずは「自主学習」が一番大事です。

これさえ身に着ければ大丈夫、というくらい重要なスキルです。これさえあれば大丈夫だが、これが身につかなければ将来にかなりのハンデを食らうことになる。そこだけはシビアに認識してください。ご友人を通して、僕にこれだけしっかりとした内容の相談メールを送れるあなたなら、きっと大丈夫です。

 

レールから降りるということについて

 僕は小学校で登校拒否をカマし、中学校は半分程度しか登校せず、高校は留年寸前の出席日数で卒業しました。レールから完全に降りることも、あるいはレールにしっかりと食らいついていくこともしない、非常に中途半端な立ち位置で人生をやってきたわけです。これは、大変良くなかったと思っています。小学校、中学校、高校、大学という流れにしっかりと乗れれば、それはそれで得です。中学校で良い成績を取り、難関大学受験の指導カリキュラムを持つ高校に入り、満足できる大学に入る。この流れに乗れるのが一つの理想像であるのは間違いありません。

しかし、そこから降りて自分一人の道を歩くのもそんなに効率が悪いわけではないんです。何度も言いますが、高偏差値の私立中学でもない限り、授業の質なんてのは正直に言って悪いです。これは一回指導する側になってみたらわかりますが、能力に大きな差のある30人程度の生徒に対して一人の教師が指導するなんて、良質な教育になるわけがありません。自主学習の習慣をしっかりつけることが出来た人間なら、自分ひとりで勉強する方がよっぽど効率が良いんです。僕も高校に関しては、さっさと退学しておくべきだったとずっと後悔し続けています。

 しかし、レールから降りることで失われるものもあります。自分の進路を、自分の将来像を、たった一人で考えなければならないということです。なんとなく中学校に通い、なんとなく成績相応の高校に入り、なんとなく成績相応の大学に行くか、あるいは就職する。こういう風に「なんとなく」人生を先に進めてくれる力がなくなります。それこそ、何もしないまま数年間過ごしてしまった、そういうことになってしまうリスクは当然あります。

結局、道は二つしかありません。苦痛を抱えたまま学校教育のレールに乗っていくか、苦痛から解き放たれる代わりにそこから得られるメリットも放棄して、自分自身の足で歩くか。もし、中学校にこれ以上通わない、あるいは一定以上の長期の休みを取るという選択をするのであれば、調査書の数字は落ちるでしょう。テストだけ出るなどの選択肢もあり得るでしょうが、それでも高校受験の幅は狭まってしまうと思います。でも、そのデメリットを踏み越えるのはそんなに難しいことではありません。

尚、私立高校への進学が可能だったり、あるいは地域によって公立でも調査書をあまり重視しない高校があったりするという話も聞きます。この辺は地域格差も大きくて、自分で調べてもらうしかないのですが。そういうのがあるなら狙ってみるのもいいですね。

 

学校生活、集団生活について

発達障害ADHD)の診断を受けているとのことですが、やはり学校生活になじめない、周囲の子どもたちの輪に入っていけない、浮いてしまう。そういうことが起きるのは、仕方が無いことです。あなたが悪いのではありません。僕だってそうでした。

今、その集団に属し続けることが健康を害するほどに苦痛であるなら、それは逃げるべきです。体調や健康を犠牲にしてまで所属する価値のあるものではありません。そして、これはきつい言い方になってしまいますが、集団への適応が一朝一夕に上手くいくケースはあまりありません。中学生の群れの中に発達障害のある人が上手く溶け込むテクニックは、僕がこのブログで書いている社会人向けのテクニックより遥かに難度が高いです。そんな難しいものを言語化するのは不可能です。僕だってそこから逃げて逃げて逃げてこの年齢まできた人です。

大人の世界はそれなりにルールがあったり、あるいは常識などがありますが、子どもの世界というのはもっとあらゆるものが不可分で、混沌としています。これは信じて欲しいのですが、あなたは今人生で一番辛い場所にいます。これから年齢が上がっていくにつれ、少しずつ、少しずつ確実に楽になってはいきます。(もちろん、別種の辛さは出現してきますが)「ある程度は仕方の無いことだ」という健全な諦めを持つことを薦めます。

しかし、友人を作ったりコミュニティの中に入ったりすることを諦める必要は全くありません。中学生だと選択肢はそれほど多くありませんが、習い事や(もし得意なら)スポーツ、あるいは趣味の同好会など、よく調べてみるとあなたの地域にもそういうものは存在するはずです。あるいは、親御さんがお金を出してくれるなら「塾」なんてのもいいと思います。僕は肌に合わないので参加したことはありませんが、ボランティア団体なんてのもあるかもしれません。そういうところに飛び込んでみるのも手です。微妙だったらバックレれればいいだけです。気が楽でしょう?

僕は中学生から20歳くらいまで、インターネットで集まった同好会で詩や小説を書いて同人誌(オタク界の言葉ではない同人誌というものもあるんですよ)を作ったりしていました。あと、部活にも居場所がありましたね。市の体育館の柔道教室に通って、そこでも友達を作ってました。高校になってもやはり文章を書くサークルみたいなものに参加していました。あと、高校生になるとアルバイトなんかも出来るようになります。居場所探しの難度は大人になるにつれどんどん下がっていきます。あなたはいずれ、自分ひとりでどこにでも行けるようになるんです。

インターネットの時代はその辺がとてもいいです。あなたの好きなものが好きな人が集まっている場所を探すのは容易でしょう。中学生だと「インターネットのお友達」というのは眉を顰められるかもしれませんが(僕らの頃はそうだったけど、今は違うのかな?)そういうところだって立派な居場所です。おじさんの友達だって、いまやインターネットで出会った人ばかりです。ただし、中学生というのはまだ子どもですので、くれぐれも悪い大人には気をつけてください。インターネットには悪い大人もたくさんいます。

あなたの世界は、間違いなく現在が人生で一番狭いです。でも、これから先大人になるにつれ、世界はどんどん広がっていきます。そして、インターネットはその手助けを強力にしてくれます。あなたの居場所は、この世界のどこかに必ずあります。それは僕も太鼓判を押します。僕の居場所だって、探せばそれなりにありました。

大丈夫です。今はまだ若すぎて、学校という檻の外側が想像できないだけです。世界はどこまでも広がっています。楽しい人たちはたくさんいます。(もちろん、楽しくない人たちもたくさんいます)あなたはあなたにふさわしい場所に辿り着く権利があるんです。それだけは忘れないでください。

このブログをよく読んでくれたということで、ありがとうございます。中学生の社会においてこのブログの内容がどれくらい役に立つかは自信が持てませんが、参考になればなによりです。でも、たかが中学校に適応なんかできなくたっていいんです。そんなもん、本当にどうでもいいんです。あなたが健やかに望む未来に向かっていければ、全てはOKです。何の問題もありません。学校という社会に適応しようとする努力はそれはそれで大事なものだとは思いますが、そういうことも忘れないでください。

 

辛いコミュニティからは、逃げていい

僕が、あなたに伝えたいことは最終的にこれだけです。小学校、中学校、高校というのは実に逃げ出しにくいコミュニティです。なにせ、その外側を全く知らないのですから、そこから脱落したら人生が終わってしまう。そんな気さえするかもしれません。

もちろん、レールから降りることにはリスクがあります。しかし、リスクを理解して自分の望む未来に向かって行動が出来るなら、何も恐れる必要はありません。また、高校生になり、大学生になり、あるいは社会人になるとその辺はどんどん自由になります。職場を辞めるのは大人にとっても怖いことではありますが、それでも中学校に通うのを止める決断ほど怖いことではありません。

ここで一つコツをお伝えします。「コミュニティから逃げやすい場所、選択肢がたくさんある場所」を可能な限り選ぶようにしてください。例えば、高校は可能なら単位制がいいでしょうし(単位制高校は基本的にクラスなどの枠が少ないと聞きます)あるいは可能な限り自由な校風のところが良いでしょう、大学はなるべく大きい大学、授業の選択肢やサークルの選択肢がたくさんあるところがいいでしょう。僕もこの選択を間違って大学を一つ辞めていますので、ここは将来の進路を選ぶ際に重視しておいて損はないと思います。

もし、あなたが「中学校に通うのはリスクを踏まえても限界だ」という選択をするなら、それはとても正しい選択です。もし、親御さんがガタガタぬかすようなら、あなたが「中学校に通わない代わりに自分でやると決めたこと」を説明してあげてください。このブログを見せてやる・・・のはどうかな、僕なんせ借金玉だから・・・。まぁ、とりあえずそれもアリです。使えるもんは全部使いましょう。

ただし、勉強はする。あなたが大学に行かない、という選択を選ぶにせよ、とにかく勉強はしてください。学校に通う以上の質の学習を自力で行えるところまで、なんとか頑張ってください。どのような選択肢をとるにせよ、そこだけはしっかりやりましょう。何回も言うけど、くれぐれも健康状態と相談しながらね!

 

 死ぬくらいなら全部投げ出した方がいいよ

さて、最後です。いただいた連絡の中に死にたいという気持ちが吐露されていたことについてです。これは嘘じゃないんですけど、僕の中学校高校時代は死にたい気持ちとの果てしない戦いでした。9:1くらいで負けていたので、何度となく自殺未遂をやりました。薬をザラザラ飲んで救急車で運ばれたことも複数回あります。そんな人間が「死んだらだめ」という話をするのもなんですが、死んだらだめです。

というのもですね、僕はもう31歳のおっさんであなたは中学2年生ですから、僕はあなたの2倍以上生きてるわけですけど。その若さで死ぬのは流石にもったいないんですよ。これは本当の話ですが、大人は結構楽しいです。僕は中学生の頃より31歳の今の方が100倍楽しいです。行きたいと思ったら、タイでもパプワニューギニアでもどこでも行けます。もう嫌だと思ったら仕事だって辞められます。気に入らない奴とは二度と連絡しないだけで縁が切れます。少なくとも、中学生の頃よりは100倍楽です。あの逃げ場のない閉塞感が永遠に続くわけではないということです。

もし、あなたが本当に「死ぬ」という決断の前に立ってしまうことがあった時は、その前に「全部投げ捨てる」ということを考えてください。学校も、人間関係も何もかも放棄して休んだっていいんですよ。そして、世界に絶望するのはまだ早いです。あと最低でも20年くらい考えていいと思います。

中学生の間に接することが出来る大人なんて、せいぜいが親と教師、それと少数の知人程度だと思いますが、大人ってのは実のところ本当にいっぱいいて、色んな奴がいます。僕の周りにも大変色んな奴がいて、それぞれ中々しんどかったりはするものの、なんとなく楽しそうにやってます。中学校に馴染めなかった奴らが「中学校なんて本当にクソだ」ということでわかりあってることなんてザラにあります。

大人になることには期待を持っていいです。あなたは今一番辛い場所にいるんです。周囲が成長し、あなたも発達すれば少しずつ楽になっていきます。そして、選択肢はどんどん増えていきます。それだけは忘れないでください。死ぬのは、その期待が破れてからでもまったく遅くありません。

 

おまけ、やりたいこともやろう

ついに八千字を越えてしまって、本当に長くてあれなんですが、もう一つだけ言わせてください。あなたの「好きなこと」は何かありませんか。僕は人生を通じて、本を読むことと文章を書くことがとても好きです。そして、それをずっとやってきました。それは、自分にとってずっと心の支えでしたし、また多くの人と引き合わせてくれたり、未来の可能性を広げてくれたりするドアでもありました。このブログももちろんそうです。

何でもいいです、あなたが心から楽しいと思えること、やりたいと思えること。それを楽しみ続けることを忘れないでください。もし、まだ見つからないなら探してみてください。世界はそういうところから広がっていきます。

あなたの世界が今、閉じているのはそういう時期だからです。発達障害のある子どもの多くが、そのような中学生時代をすごします。僕もそうでした。でも、それが永遠に続くわけではない。それだけは信じてください。未来に向かう意思と確かな努力さえあれば、少なくとも今よりずっと楽しい場所に必ず辿り着けます。この先にも苦労はたくさんあるでしょうが、それはそれとして人生はずっと楽しく楽になります。そして、同じような経験をして、同じような気持ちを持った人ともたくさん巡り合えます。

それだけは信じて欲しいと思います。

陳腐なことを言いますが、あなたはまだとても若く、可能性に満ちている。その可能性を掴むには努力と苦労が必要になることも確かですが、それでもあなたは絶望するには早すぎます。前菜が不味かったからといって、メインディッシュが不味いとは限りません。デザートまで食ってから席を立っても遅くはないんです。

31歳のおっさんも死なずに頑張りますので、中学校2年生のあなたも死なないでください。やっていきましょう。