発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

茶番のない国にて-部族の掟とお気遣いのスペクトラム

茶番、やってますか?

朝、会社に行ってまず「おはようございます」。帰るときには「お疲れ様でした」。飲み会の翌日には「昨日はありがとうございました、楽しかったです」。こういうものを僕は「茶番」と呼んでいますが、皆さんは今日も茶番をやっておられるでしょうか。

今日、僕はツイッターで「サラダを取り分ける」話をしていたんですけれど、一般的な社会では新卒がサッとスマートにサラダを取り分けると「デキる」とされることが多いと思います。シーザーサラダにおける温玉の扱いという哲学が発生しかねないくらいには、一般的な観念として浸透しているでしょう。

実際、サラダを上手に取り分けられることと仕事ができることの間には特に関連性はないと思います。もちろん、接客業だったり人間関係を常に適温に保つルート営業だったりしたらこういった「茶番」にも切実さが出てきますが、事務職だったりあるいは内勤系のお仕事の場合はそれって実際のところ職能とは関係ないですよね。

実際、職業上どの程度の茶番、言葉が悪ければ「お作法」が必要かは業種によって結構違います。IT系なんかは「ほとんどいらない」というケースもあるでしょう。部族のカルチャーはところによって違い、絶対の正解というものはありません。「これができたらOK」もなければ「これができなければダメ」も言い切れるものではありません。

 

茶番の効用ーあなたは頑張っていますか?

人間は結構不思議なことを言います。例えば「あの人はおべっかごますりで出世した無能だ」と他人を罵る人が「私は頑張っているんだ」という主張を臆面もなくしたりまします。「頑張っている」から評価しろというのであれば、おべっかごますりだって評価されていいんじゃないか、と僕はよく思ったものです。

「ごますり」で出世した人というのは嫌われる人物造詣ですが「仕事はできないけど頑張ってる人」「努力が評価されて出世した人」は結構好まれます。この違いがどこにあるかというと、僕はちょっとわかりません。職能以外のコミュニケーションやパフォーマンスでポイントを稼いでいるという点ではまったく同一ですし、実力主義ないし成果主義の世界を望むなら「頑張っている」というのはおかしな話になると思います。

でも、僕は「頑張っている」というのは大事なことだと思います。そして「頑張っている」と周囲から認識されることが大事、と述べています。つまるところ「ごますりで出世した人」を批判する権利は僕にはない、僕は茶番の側に立つのだ、ということになるんですね。

その一方、「無意味な慣習」「面倒な茶番」は嫌いですね。これはちょっと矛盾しています。これは考えていくとかなり面白いテーマです。

 

茶番のない国について

たまに、人間社会には「一切の茶番を排した」と呼んで差し支えないようなソリッドなコミュニティが生まれることがあります。例えば、同格程度の商売人が複数組んでビジネスをやるときなんかもたまに起きますし、実力主義ベンチャー企業なんかでもたまにあります。ちなみに、僕が今勤めている会社も「営業」が主力の会社ですのでこれに近いものがあります。数字さえあげてれば、何をしても許されるわけですし。

僕は今の会社に居心地のよさを感じていますし、実を言えばこのソリッドな状況は嫌いではないのですが、これは僕の現在の能力が場に適合しているからです。周囲の人間の能力が僕より遥かに高く、また自分の適性にも仕事が合致していない。そういう状況下でこの「茶番のない国」に在籍することは、即ち「地獄」を意味します。

「私は頑張っています」と言っても「誰も頑張れなんて言ってないよ、数字を上げろ」と返される場所で生き残れる人というのはそれほど多くありません。また、「数字」ならまだ良いですが、「成果」となると更に曖昧模糊としてきます。「実力主義の茶番のない国」だからといって、評価基準が明示されているとは限りません。

「お疲れさまです」「ありがとうございます」「コーヒーいりますか?」こういう「茶番」が人間関係の潤滑油になり、またショックを和らげるクッションになっていることも、また疑い得ないのです。「部族の掟」「茶番」を全て取り払った組織で楽しく過ごせるのは強者だけです。

実を言うと、「強い」発達障害者は「茶番のない国」でイキイキと働いていることがたまにあります。もともと「共感」や「お気持ち」に重きを置いていないので、茶番がなければ楽ですし能力面で勝ればひたすらに居心地が良い。いうなれば「茶番」で回る「部族」は「全ての歯車の規格が揃っている組織」であり、「茶番のない国」は「強い歯車が弱い歯車を潰しながら回る組織」になるのです。

僕も実を言えば、一瞬そういう場所に所属して「ここは僕の同胞たちの場所だけど、僕はここでは潰されてしまう」と思って逃げたことがあります。とても怖かった。もちろん、そこにいる人たちは魅力的でしたが、僕の能力ではとてもついていけませんでした。またチャレンジしたい気持ちはありますけどね。

 

正しさはどこにあるのか

人は「実力を評価しろ」と言います。コネや縁故、ごますりおべっか、そういうものを嫌います。その一方で「努力を評価しろ」と言います。「私は頑張ってるんだ」「わかってくれ」そういうことも言います。これは、実を言うと発達障害者の中にも「他人の頑張りは評価しないが、自分の頑張りが評価されないのは許せない」という形で出来上がってしまうタイプもいます。

「礼儀」「作法」「茶番」「気遣い」「忖度」「マナー」…いずれも、本当に面倒で厄介なものです。僕も大変に苦手です。しかし、これらを全て排除した会議をやってみたところ、大変な地獄が出現してしまった苦い思い出があります。「全員言いたいことを言え、ただし正しいことを言え」というのは恐ろしい言葉です。

「茶番のない国」が僕は好きです。いつか、そこでみんなが幸せになれたらいいと思いますし、茶番にかけるコストを省略できれば生産性はあがるだろうな、と思います。しかし、実際に自分が会社を経営してみた経験を踏まえても、「茶番」がないと人間はどんどん潰れてしまう。いうなれば、潰しあいを前提とした拮抗のようなものが発生しないと「茶番のない国」は成立しないのです。

これは、能力的につりあった複数の人間がバランスよく配置され、相互の干渉や圧力がピッタリ嵌った状態といえます。創業期のベンチャー企業なんかは、この状態に入るとものすごい速度で躍進しますね。これはまるで終わらない文化祭のような楽しさがある状態です。しかし、そんな楽しい出来事はそうそう起こらない。一箇所弱い場所があれば、一人能力的に劣る人がいたら、あるいは求められている能力と適性の噛み合っていない人がいたら、即座に崩壊します。

「最高のバンドができた」状態に近いですね。でも、「音楽性の違い」というものは避けがたく起こります。

 

自分をベースに考えよう、居心地の良い場所を探そう

そういうわけで、どの程度の「茶番濃度」があれば居心地が良いかというのは人それぞれ違うと思います。「ゼロが良い」という人はゼロの場所も探せばありますし、逆に定型発達力(ニュアンスを汲んでください)の高い人は、茶番がゴリゴリにルール化してる場所が居心地が良いでしょう。体育会系が居心地の良い人だっているわけです。

組織に所属する上で「この組織のあり方は気に入らない、自分には合わない」という気持ちは失わない方がいいと思います。いつか、致命的に組織との間に問題が起きたときに自分を守る防壁になりますし、居心地の良い新しい場所を探す原動力にもなります。

しかし、組織に属する以上「出世して変えてやる」というような長期目標はともかく、短期的には組織のあり方に一定の順応を狙うのが良いと思います。自己を肯定しながら、あるいは組織のあり方や他者を否定しながら、同時に体と頭を順応的に動かす。こういう一種のダブルシンクみたいなものが一番大事だったんだな、と僕は思っています。

「組織が絶対」になってしまった人は脆いです。実際、今年も800人の新卒が朝6時に朝礼をやって行進の練習をした後、30キロ歩くみたいな研修の話題を見かけましたが、あれは「組織が絶対」に人間をハメ込む方法です。あの洗脳がかかった人間は組織の中において極めて便利な存在ですが、外部に逃げ出すこともあるいは組織の文法以外の思考をすることもとても難しくなります。

一方で「一切茶番がやれない」人も脆いです。前述のとおり、人間社会から「茶番」は切り離せない。ささやかな「気遣い」が人間を救うことはよくあります。僕だって救われたことはある。それが一定以上の「ルール」になってくると「茶番?」ということになりますが。それでも、「部族の掟」と「気遣い」の間はスペクトラム(見慣れた概念ですね)です。二分することはできません。

「あるべき社会の形」を考えることは、僕はとりあえず後回しにしました。皆さんも後回しにしていいと思います。それを考えるには僕は些かに未熟だし、知識も経験も足りません。まずは、「いかにあれば楽か」を考えることにしています。だって、楽なのは良いことです。これ以上良いことなんかないでしょう。

 

あなたのために歩きましょう

人間はついつい色んなことを考えてしまいます。僕も新卒のときは「こんな社会は間違っている」とかそんなことを考えました。今もけっこうよく考えますが、調子が悪いときはとりあえず「今は自分がどうするべきかだけ考えよう」という方向に進むことにしています。

健康で、なるべく楽に、可能な限り利益の大きい方向へ進めばいい。それだけのシンプルな話です。もちろん、僕なりに譲れない正義みたいなものはありますが、それはなるべく小さくコンパクトに折りたたんで言語化することにしました。そうすれば、「なんとなく体が動かない」がとても少なくなります。

割り切れないものだ、という割り切り。とても大事なものだと思います。もちろん、「理想の形はどこにあるのか」を考えることはとても善いことですが、あなたが辛い状況にあるならそれは後回しでよいのです。「理想」が見えても、それは別にあなたの窮状を救ったりしないのですから。

ゆっくりいきましょう、あなたの望む方向へ。あなたの楽な方へ。あなたの楽しい方向へ。難しいことは、余裕ができてから考えましょう。僕もベストな「茶番」のあり方について、時々考えていくことにします。

やっていきましょう。