発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

モノサシのたくさんある場所、あなたの価値について

僕には何の価値もない

僕は人生で何度もこう思いました。僕には何の価値もない、生きていてもしょうがない。友人関係はうまくいかない、異性には相手にされない、クラスでハブられている、仕事はうまくいかない、起業は失敗した、約束を守れなかった、成果を出せなかった、フットサル一つ上手にやれない、みんなの楽しい合コンを楽しめない、躁鬱病みの発達障害者だ…。

人生を通じて、四季折々の理由で僕は「自分には価値がない」と決めつけてきました。この「自分には価値がない」という断定は、ある意味僕の人生の原動力でもあったと思います。僕になんて何の価値もない、だから死んでもいいのだ、むしろ死にたいのだ。それは時に異常な行動力をもたらし、このアップダウン地獄みたいな人生を生み出しました。

さて、そんなわけで「私にはなんの価値もない」と考えていらっしゃる方、多いと思います。「そんなことないよ」なんて言っても心はピクリとも動かないですよね。わかります。僕もそうでした。では、今日はモノサシについて考えてみようと思います。

 

あなたを測るモノサシは何か

さて、あなたに価値がないと仮定します。

では、あなたに「価値がない」と判定するモノサシはどんなものでしょうか。実際、これについて考えてみるとかなり不思議な感じがします。例えば、「発達障害躁鬱病みだから価値がない」と考えると、「病気の障害者には価値がない」という話になり、あなたは本当にそう思っているでしょうか。「思っている」という人もいるかもしれないですが、実際本心からそんなことを思っている人はそう多くもないでしょう。少なくとも、ツイッターで堂々と発言するとみんなに怒られる話ですよね。「俺は気合の入った差別主義者だ」って人はともかく…。

クラスでハブられているから、というのはもっと簡単で「クラスの人気者には価値があり、クラスの陰キャには価値がない」という発想ですが、クラスの人気者に本当に価値ってあると思いますか?僕は正直、過去に遭遇したクラスの人気者たちが「面白いやつ」であったことは少ないと思います。僕にとって面白いやつは、いつもクラスの端っこにいました。

そんなわけで、人間の価値を測定するモノサシってのはなんだかよくわからないんですね。大抵の場合、ほとんど言語化されず「とにかく俺に価値がないんだ」という思い込みがグチャグチャになって思考を覆いつくしているものだと思います。

そして、僕自身が「俺には何の価値もない」に最も強く縛られていたのは、高校生までの時期でした。そこでは人気者がいて、僕は嫌われ者でした。いわば、「高校」という部族の中で僕は負けていたので、自分に価値はないと決めつけていたのです。

でも、それって単なる部族カルチャーですよね。僕の高校は底辺だったので、ルックスが良かったり面白かったり運動ができたりするやつが人気モノでした。話題はテレビとかそんなものばかり。勉強ができるとか、本をたくさん読んでいるとか、面白い趣味を持っているとか、古い映画に詳しいとか、そういう価値観はほとんどなかったと思います。本当に話し相手に苦労したのを覚えています。(もちろんクラスの日陰にはそういう相手もいて、何人かは友人がいましたが)

 

部族のモノサシ

人間はあらゆる場所に部族を形成する生物です。そこには非言語的な序列が形成され、順位が上の人間がいれば下の人間も必ずいます。これは羊の群れと同じで、そういう生物なんだ、と考えるしかないと僕は思ってます。

でも、場所が変わればモノサシも変わる。例えば、ツイッターで人気のインテリキャラを僕の高校に投げ込んだら、一瞬でクラスの日陰者にジョブチェンジすることは間違いありません。そもそも話が理解できないからです。

あなたに「価値がない」というのを一面的真実としても、それは「モノサシ」と「あなた」の相性が非常に悪いから、という可能性は大いにあります。これは、会社なんかでもいえることです。「転職したら世界観が別物になった」というのはよくあることですよね。

しかし、部族から逃げ出せないならそこで流通している「モノサシ」がどんなものなのか、見極める必要があります。この部族はどんな価値観で人間を測っているのか、ジャンプ力か、吠え声の大きさか、それともタテガミの立派さか、そういうところから見極めてやらないないと、部族の中で上手に価値を獲得することはできません。

エリマキトカゲの群れならば、エリマキを上手に広げてやる必要があるわけです。エリマキトカゲより大分頭の悪い風習を持った部族は結構存在します。それはそれで意外と慣れると居心地がよかったりするのですが。エリマキを広げればいいならエリマキを広げればいいですよね、それだけです。

「俺はダメだ何の価値もない」というのは分析のすべてを放り出した状態です。ひたすらに苦しむだけで何の生産性もありません、そんな苦しみを味わう必要はきっとないんだと思います。とはいえ僕自身も結構「俺なんて所詮はダメだ…」と部屋の中を転げまわって埃を掃除していることはあるんですが…。

 

モノサシのたくさんある場所

「多様性」という言葉があります。これは、いわゆる「いろんなモノサシが流通している場所」という意味だと考えていいでしょう。人間は多様性という言葉を結構肯定的に使いますが、現実的に「多様性」を好む人間というのは正直…僕はほとんど見たことがないです。

しかし、「多様性」のある場所はあります。まず、第一に都会でしょう。人のたくさんいる場所にはそれだけたくさんの部族があります。それだけたくさんのモノサシがあるといえるでしょう。あるいは、人の多い場所、人の流動的な場所です。逆に、人間が少なく流動的でない淀みみたいな場所では当然部族カルチャーは煮詰められ、強化されます。あれは結構怖いですね…。

自分がどうやら汎用性のあるモノサシでは高く評価されないタイプである、と感じたときは、なるべく人が多く流動的な場所を目指すことをオススメします。どこかに、「あなたみたいな人間を待ってたんだよ!」という場所があるかもしれません。僕も何度かそういうことがあって、そんなときは「生きててよかった」と思ったものです。のちにひどい目にあったこともありますが…それはしょうがないね…人間は悪い。

 

モノサシについて考えてみましょう

さて、そんなわけで今日のお話はこんなところになります。「自分には何の価値もない」と床を転げていても、床のホコリが減って服が汚れるくらいの結果しかありません。「価値がない」と断定するからにはモノサシがあるはずです。そのモノサシがどんなものなのか考えてみましょう。部族について考えてみましょう。

ちなみに、この「部族のモノサシ」について考えられなくなった状態を「部族を内面化した状態」と言います。ブラック企業の従業員などはしばしばこういう状態に陥っていますね。あれはとてもつらい状態なので、なるべく避けるようにしましょう。部族と自我はしばしば見分けがつかなくなります。

そしてもう一つ。あなたは何に価値を感じ、何を目指し、何を善しとする人なのかも考えてみましょう。部族とは全く関係のない、あなた自身の価値観について。「部族のカルチャーを理解し、適応しよう」という気持ちは大事です。でも、それと同じだけ「自分は何に価値を置くのか」ということを考えることも必要です。

どうか、影も形も見えないモノサシで自分を裁いて、苦しみのどん底まで落ちていくことだけは避けてください。僕も頑張ります。いや、ホントに油断すると落ちるので怖いんですよこれ。あなたの価値を定めるモノサシは、あなた自身の手にあるべきです。

やっていきましょう。

 

茶番のない国にて-部族の掟とお気遣いのスペクトラム

茶番、やってますか?

朝、会社に行ってまず「おはようございます」。帰るときには「お疲れ様でした」。飲み会の翌日には「昨日はありがとうございました、楽しかったです」。こういうものを僕は「茶番」と呼んでいますが、皆さんは今日も茶番をやっておられるでしょうか。

今日、僕はツイッターで「サラダを取り分ける」話をしていたんですけれど、一般的な社会では新卒がサッとスマートにサラダを取り分けると「デキる」とされることが多いと思います。シーザーサラダにおける温玉の扱いという哲学が発生しかねないくらいには、一般的な観念として浸透しているでしょう。

実際、サラダを上手に取り分けられることと仕事ができることの間には特に関連性はないと思います。もちろん、接客業だったり人間関係を常に適温に保つルート営業だったりしたらこういった「茶番」にも切実さが出てきますが、事務職だったりあるいは内勤系のお仕事の場合はそれって実際のところ職能とは関係ないですよね。

実際、職業上どの程度の茶番、言葉が悪ければ「お作法」が必要かは業種によって結構違います。IT系なんかは「ほとんどいらない」というケースもあるでしょう。部族のカルチャーはところによって違い、絶対の正解というものはありません。「これができたらOK」もなければ「これができなければダメ」も言い切れるものではありません。

 

茶番の効用ーあなたは頑張っていますか?

人間は結構不思議なことを言います。例えば「あの人はおべっかごますりで出世した無能だ」と他人を罵る人が「私は頑張っているんだ」という主張を臆面もなくしたりまします。「頑張っている」から評価しろというのであれば、おべっかごますりだって評価されていいんじゃないか、と僕はよく思ったものです。

「ごますり」で出世した人というのは嫌われる人物造詣ですが「仕事はできないけど頑張ってる人」「努力が評価されて出世した人」は結構好まれます。この違いがどこにあるかというと、僕はちょっとわかりません。職能以外のコミュニケーションやパフォーマンスでポイントを稼いでいるという点ではまったく同一ですし、実力主義ないし成果主義の世界を望むなら「頑張っている」というのはおかしな話になると思います。

でも、僕は「頑張っている」というのは大事なことだと思います。そして「頑張っている」と周囲から認識されることが大事、と述べています。つまるところ「ごますりで出世した人」を批判する権利は僕にはない、僕は茶番の側に立つのだ、ということになるんですね。

その一方、「無意味な慣習」「面倒な茶番」は嫌いですね。これはちょっと矛盾しています。これは考えていくとかなり面白いテーマです。

 

茶番のない国について

たまに、人間社会には「一切の茶番を排した」と呼んで差し支えないようなソリッドなコミュニティが生まれることがあります。例えば、同格程度の商売人が複数組んでビジネスをやるときなんかもたまに起きますし、実力主義ベンチャー企業なんかでもたまにあります。ちなみに、僕が今勤めている会社も「営業」が主力の会社ですのでこれに近いものがあります。数字さえあげてれば、何をしても許されるわけですし。

僕は今の会社に居心地のよさを感じていますし、実を言えばこのソリッドな状況は嫌いではないのですが、これは僕の現在の能力が場に適合しているからです。周囲の人間の能力が僕より遥かに高く、また自分の適性にも仕事が合致していない。そういう状況下でこの「茶番のない国」に在籍することは、即ち「地獄」を意味します。

「私は頑張っています」と言っても「誰も頑張れなんて言ってないよ、数字を上げろ」と返される場所で生き残れる人というのはそれほど多くありません。また、「数字」ならまだ良いですが、「成果」となると更に曖昧模糊としてきます。「実力主義の茶番のない国」だからといって、評価基準が明示されているとは限りません。

「お疲れさまです」「ありがとうございます」「コーヒーいりますか?」こういう「茶番」が人間関係の潤滑油になり、またショックを和らげるクッションになっていることも、また疑い得ないのです。「部族の掟」「茶番」を全て取り払った組織で楽しく過ごせるのは強者だけです。

実を言うと、「強い」発達障害者は「茶番のない国」でイキイキと働いていることがたまにあります。もともと「共感」や「お気持ち」に重きを置いていないので、茶番がなければ楽ですし能力面で勝ればひたすらに居心地が良い。いうなれば「茶番」で回る「部族」は「全ての歯車の規格が揃っている組織」であり、「茶番のない国」は「強い歯車が弱い歯車を潰しながら回る組織」になるのです。

僕も実を言えば、一瞬そういう場所に所属して「ここは僕の同胞たちの場所だけど、僕はここでは潰されてしまう」と思って逃げたことがあります。とても怖かった。もちろん、そこにいる人たちは魅力的でしたが、僕の能力ではとてもついていけませんでした。またチャレンジしたい気持ちはありますけどね。

 

正しさはどこにあるのか

人は「実力を評価しろ」と言います。コネや縁故、ごますりおべっか、そういうものを嫌います。その一方で「努力を評価しろ」と言います。「私は頑張ってるんだ」「わかってくれ」そういうことも言います。これは、実を言うと発達障害者の中にも「他人の頑張りは評価しないが、自分の頑張りが評価されないのは許せない」という形で出来上がってしまうタイプもいます。

「礼儀」「作法」「茶番」「気遣い」「忖度」「マナー」…いずれも、本当に面倒で厄介なものです。僕も大変に苦手です。しかし、これらを全て排除した会議をやってみたところ、大変な地獄が出現してしまった苦い思い出があります。「全員言いたいことを言え、ただし正しいことを言え」というのは恐ろしい言葉です。

「茶番のない国」が僕は好きです。いつか、そこでみんなが幸せになれたらいいと思いますし、茶番にかけるコストを省略できれば生産性はあがるだろうな、と思います。しかし、実際に自分が会社を経営してみた経験を踏まえても、「茶番」がないと人間はどんどん潰れてしまう。いうなれば、潰しあいを前提とした拮抗のようなものが発生しないと「茶番のない国」は成立しないのです。

これは、能力的につりあった複数の人間がバランスよく配置され、相互の干渉や圧力がピッタリ嵌った状態といえます。創業期のベンチャー企業なんかは、この状態に入るとものすごい速度で躍進しますね。これはまるで終わらない文化祭のような楽しさがある状態です。しかし、そんな楽しい出来事はそうそう起こらない。一箇所弱い場所があれば、一人能力的に劣る人がいたら、あるいは求められている能力と適性の噛み合っていない人がいたら、即座に崩壊します。

「最高のバンドができた」状態に近いですね。でも、「音楽性の違い」というものは避けがたく起こります。

 

自分をベースに考えよう、居心地の良い場所を探そう

そういうわけで、どの程度の「茶番濃度」があれば居心地が良いかというのは人それぞれ違うと思います。「ゼロが良い」という人はゼロの場所も探せばありますし、逆に定型発達力(ニュアンスを汲んでください)の高い人は、茶番がゴリゴリにルール化してる場所が居心地が良いでしょう。体育会系が居心地の良い人だっているわけです。

組織に所属する上で「この組織のあり方は気に入らない、自分には合わない」という気持ちは失わない方がいいと思います。いつか、致命的に組織との間に問題が起きたときに自分を守る防壁になりますし、居心地の良い新しい場所を探す原動力にもなります。

しかし、組織に属する以上「出世して変えてやる」というような長期目標はともかく、短期的には組織のあり方に一定の順応を狙うのが良いと思います。自己を肯定しながら、あるいは組織のあり方や他者を否定しながら、同時に体と頭を順応的に動かす。こういう一種のダブルシンクみたいなものが一番大事だったんだな、と僕は思っています。

「組織が絶対」になってしまった人は脆いです。実際、今年も800人の新卒が朝6時に朝礼をやって行進の練習をした後、30キロ歩くみたいな研修の話題を見かけましたが、あれは「組織が絶対」に人間をハメ込む方法です。あの洗脳がかかった人間は組織の中において極めて便利な存在ですが、外部に逃げ出すこともあるいは組織の文法以外の思考をすることもとても難しくなります。

一方で「一切茶番がやれない」人も脆いです。前述のとおり、人間社会から「茶番」は切り離せない。ささやかな「気遣い」が人間を救うことはよくあります。僕だって救われたことはある。それが一定以上の「ルール」になってくると「茶番?」ということになりますが。それでも、「部族の掟」と「気遣い」の間はスペクトラム(見慣れた概念ですね)です。二分することはできません。

「あるべき社会の形」を考えることは、僕はとりあえず後回しにしました。皆さんも後回しにしていいと思います。それを考えるには僕は些かに未熟だし、知識も経験も足りません。まずは、「いかにあれば楽か」を考えることにしています。だって、楽なのは良いことです。これ以上良いことなんかないでしょう。

 

あなたのために歩きましょう

人間はついつい色んなことを考えてしまいます。僕も新卒のときは「こんな社会は間違っている」とかそんなことを考えました。今もけっこうよく考えますが、調子が悪いときはとりあえず「今は自分がどうするべきかだけ考えよう」という方向に進むことにしています。

健康で、なるべく楽に、可能な限り利益の大きい方向へ進めばいい。それだけのシンプルな話です。もちろん、僕なりに譲れない正義みたいなものはありますが、それはなるべく小さくコンパクトに折りたたんで言語化することにしました。そうすれば、「なんとなく体が動かない」がとても少なくなります。

割り切れないものだ、という割り切り。とても大事なものだと思います。もちろん、「理想の形はどこにあるのか」を考えることはとても善いことですが、あなたが辛い状況にあるならそれは後回しでよいのです。「理想」が見えても、それは別にあなたの窮状を救ったりしないのですから。

ゆっくりいきましょう、あなたの望む方向へ。あなたの楽な方へ。あなたの楽しい方向へ。難しいことは、余裕ができてから考えましょう。僕もベストな「茶番」のあり方について、時々考えていくことにします。

やっていきましょう。

 

 

もうだめな新卒のためのエントリ

もうだめだ、の声が届いております

僕のツイッターのDMの方に「就職しましたが、だめです」の声が大量に届いておりまして、急遽予定を変更してこのエントリを書いております。それが呼び水になったのか、更に2つ「もうだめだ」DMが届いており、なるほど社会は相変わらず厳しいようですね。。返信しているうちに夜が明けてしまいました。

通常「もうだめだ」の発生は四月頭のこの時期ではなく、五月のGW明けなどに集中するのですが、流石は日ごろから僕のツイッターを眺めている皆さん。潜在的に「もしかしたら危ないか?」という危惧はあったのか、判断がとても早い。そういうわけで、まず一番大事なことを書きます。

その「もうだめだ」という判断はとても立派です。

発達障害は言い訳病」みたいな話が結構ありますが、僕の知る限りではそれはあまり多いケースではなく、発達障害によくあるケースは「認められない」、即ち「否認」の状態です。明らかに問題が出ているのに、その問題を直視できない。「努力不足」とか「意思が弱い」とかそういう楽な回答に逃げ込んだ結果、欝などの二次障害でぶっ壊れ、本物の「もうだめだ」がやってきます。

かくいう僕もそうでした。「これはもうだめだ」と気づいたのは入社して半年以上経ってからで、その時点では欝も不眠も相当に悪化しておりました。今思うと、さっさと精神科に通ってコンサータや安定剤、あるいは睡眠薬をもらえば少なくとも「居眠り」などの致命的な問題は解決できていた可能性があるし、もう少し長く組織で生き残りを図れた可能性もあったと思います。

何故そんなことが起こるのか、ちょっと考えていきましょう。

 

精神疾患や障害、あるいは精神医療をバカにしていた

僕に「もうだめだ」という相談をしてくる皆さんの多くがこの話をします。この数日で実に8通の「もうだめだ」DMが届いているのですが、そのうち半数にニュアンスの違いはあれど、この内容がありました。自分が発達障害のケがある可能性には気づいていたが、その一方でそれを治療したり向き合ったりすることにとても大きな抵抗があった。それは、自分がそういったものを見下し、バカにする意識があったからだ、と。

つまり、懺悔なんですね。

でも、例えば精神疾患発達障害を公然と嘲っていたとかならともかく、内心にそういうものがあったというのは結構仕方がないことだと思います。僕は物心ついたときから精神を病んでいたのでこういう感情は持ったことがありませんが、実際多くの人がそんなものでしょう。それは、本当に仕方のないことです。

それともう一つ。これは「追い詰められた人間が異常に謙虚になる」の現象でもあるでしょう。要するに、自責の感情が高まるあまりに「自分にはこんな悪いところがあった、だから罰を受けているのだ」というような合理化が始まってしまっているのです。

でも、それで何かが良くなるか?と言われたら絶対にそんなことはありません。とりあえず、障害や疾病を馬鹿にする気持ちはなくなった。それはよいことです。そして何より、その感情を乗り越えて「もうだめだ」と認めたこと。

僕は「良く頑張った」と思います。問題と向き合うことなしに問題の解決はありません。そして、「目の前に大きな問題がある」と認めるのはとても辛いことです。特に、解決方法がほとんど明らかになっていない発達障害に関しては。

しかし、皆さんは認めたんです。じゃあ、ここからは「解決」に向かうフェイズですよね。最初の山は越えました。本当に良く頑張りました。あなたを責めるのはあなたの会社の人がやってくれるので、あなたは自分を責める必要はありません。まずは、「認めた」という自分を褒めてあげてください。

あなたはもう十分苦しみました、その苦しみをこの短期間で「認めた」のはとても立派なことです。まずは、これを大事にしてください。自責で何かがよくなることなんて、絶対にありません。

 

パニックを抜け出そう

さて、僕に「もうだめだ」の相談をしてくださった皆さんは全員、少なからずパニック状態でした。相談がしたいのか懺悔がしたいのか、辛い状況への共感が欲しいのか現実的な対処方を知りたいのかを区別できている人は一人もいなかったと思います。ある意味当然のことかもしれません。

しかし、「もうだめだ」を抜け出すには現実的な行動をする必要がある。そして、これはADHDに顕著ですが、問題が起こると様々な考えが頭の中で渦を巻き、現実的なタスクに落とし込むことが不可能になります。

これは「見えていない」状態です。目の前の巨大な問題に圧倒され、自分がとるべき行動を定められないまま空転しているだけです。しかし、同じ場所をクルクル回りながら自分を責め立てても、一つも良いことはないわけですね。

しかし、新卒の皆さんにやるべきタスクが多いかというと、実を言えばそんなことはないわけです。大体のところはこんなものでしょう。

1.発達障害の診断を受けて投薬治療を試す

2.職場への順応を模索する

3.業務上の現実的困難を一つずつ解決していく

優先順位も多分このままですよね。そして、もう一つ。パニック状態にある人がとりあえず落ち着くには安定剤という強力な手助けがあります。「会社のトイレからこのDMを送ってます、涙が止まりません」という状態には、一粒の安定剤が最も強い効果を持ちます。また、二次障害が出始めている人も早急に対処する必要があります。

欝と不眠。この二大疾病は本当に恐ろしいです。人が死ぬ病です。

そういうわけで、まずは通院を始める。その後に会社への順応や困難の解決を図っていく。そういう順番になるということをまず心得てください。

 

病院の予約が取れない、休みが取れない、タスクの見通し

相談の中で困りごととして一番多かったのがこちらです。確かに、メンタルクリニックは大体が大盛況。初診の予約を取るのは結構難しい。この解決策は片っ端から電話をかけて問い合わせるしかありません。しかし、大体の人が1つか2つ電話をした段階で「予約が取れない」というパニックに陥っていました。

また、新卒で入社したばかりということで「有給を取る」という発想が完全に無い方も多く、「この状況を解決しなければ自分は助からない」というようなところまで追い込まれている方も散見されました。

確かにメンタルクリニックの予約は取りにくい。大人の発達障害に対応してくれる病院も多くはない。しかし、現実問題として発達障害者が治療を受けやすい状況を作るというのは、それよりはるかに難しいことです。新しい環境への適応に失敗し「もうだめだ」の状態にある人に、それは荷が重過ぎる。今考えるべきことではありません。

「予約が取れるまで電話をかけまくる」、「有給を使うことも視野に入れる」。この二つだけでOKです。というか、それ以外は考えなくてよいです。社会問題の解決は余裕ができてから考えればいいのです。もちろん、新人が「休みをくれ」とは言いにくいでしょう。でも、現実を言えば「新人」であるうちが一番休みやすいのです。なにせ、戦力になっていないのですから職場にいなくても困る人は少ない。上手な言い訳を考えて、休んでしまいましょう。

とりあえず、予約を取ってしまいましょう。あまり推奨される手段ではないですが、予約日が遠いならとりあえず抑えておいて、もっと近い日取りで予約が取れる病院があれば、遠い方はキャンセルしても良いのです。

発達障害の投薬治療の場合、これは半ばやけっぱちの言い回しですが「名医」を探す必要はほとんどありません。何せ、大人に適用になる治療薬がコンサータストラテラの2種類しかないのです。不眠に関しても、睡眠薬の種類なんてたかが知れています。鬱も、軽度の「鬱状態」ならまずは「安定剤を飲んで落ち着く」だけで大分効果が出ます。とにかく予約の取れた病院に飛び込みましょう。めんどくさいことは何も考えなくていいのです。

 

職場への順応のために

「仕事が全く出来ない」という声が聞こえてきます。特にこれは事務職の方に多いですね。かつての僕と全く同じ状態です。さて、これは一朝一夕で解決する問題ではありません。ADHDが複雑な書類処理のような仕事を迅速にこなせるようになるまでは、かなり長い訓練が要ります。

じゃあ、どうするか。「出来ないモンは出来ないんだからしょうがない、努力はするが一定は仕方ない」というポジティブな諦めを持つことです。この諦めがあると「すいません、少しずつでも頑張っていきますので何卒ご容赦ください」のような言い回しが出てくるようになります。

そして、この時期に「仕事が出来ない」と気づいた皆さんはとても有能です。何故なら、「仕事が出来ない」なりの立ち回りにシフトすることが可能だからです。「俺は出来るはずだ」「周囲がおかしい」と敵意を燃やすような状態が最悪です。もちろん、敵意はあっていいのですが、それを表に出してしまうと生き残りを図るべき持ち時間がどんどん減ります。

まずは、「足りないながらも一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」という姿勢を見せることだけを考えておけば良いのです。「あいつはちょっと抜けてるけど、素直だし頑張ってる」と認識されていれば、最短でも1年は生き残れるでしょう。この「素直に頑張っている」という外面を作るには「自分は仕事が出来ない」という認識がどうしても必要になります。

何度も書きますが、これを認めるのは本当に苦痛なことです。「努力が足りないんだ」「意志力が足りないんだ」に逃げる方がずっと楽です。しかし、皆さんは認めた。何度でも言います。本当によく頑張った。

そして、「仕事はやれるだけやって、それでもダメならしょうがない」と自分を許してあげてください。究極的に、あなたを追い詰めて殺すのはあなた自身です。逆に言えば、あなたが自分の敵にならなければ、あなたは生き残ることが出来ます。

最後まであなたの味方であり得るのはあなた自身だけです。どうか、最後まで自分の味方であってください。

 

リラックスタイムこそ最も重要

皆さんは新卒なので、「早速日付が変わるまで残業」というのはレアケースだと思います。大体のところ、20時くらいには帰宅しているのではないでしょうか。しかし、「もうだめだ」状態にある皆さんは、帰宅したあと「自分の時間」を過ごすことがまったく出来なくなっていると思います。「明日も仕事だ」という強迫観念に取り付かれている状態では精神も肉体も全く休まっていません。

そこで、僕の友人のお話をします。彼は公務員で、仕事があまり出来ません。診断は受けていませんが発達障害の気はかなりあります。そして、「俺は職場のお荷物、公務員最高」と公言して生きています。しかし、彼がこの「悟り」に到達したのはわりと最近のことで、それまでは「俺はだめな人間だ」「もうだめだ」をずっと繰り返していました。

では、この「悟り」の根源となったのはなんだったのか。「カウチポテト」と彼は言っていました。「カウチポテト」というのはソファーに寝そべったままダラダラテレビを見て時間を過ごす人のことを言いますが、彼の「カウチポテト」はもっと気合いが入っています。

彼はボーナスを注ぎこんで自室にホームシアターを構築しました。すわり心地の良いソファも買いました。完全な暗室に出来るように遮光カーテンも購入し、ちょっと良い葉巻とヒュミドールも購入しました。ちょっと良いお酒とグラス。そして、美味しいツマミも揃えました。

彼はボロボロになって帰宅すると、そこに飛び込み徹底的に自分の世界に浸るのです。これは、一種の「外界遮断シェルター」みたいなものでしょう。また、シェルターに入る前には必ずシャワーを浴びるそうです。一種の儀式なんでしょうね。彼は部屋がどれだけ荒れ果てようとも、このシェルターだけは常に清潔を維持しているそうです。

最近は「部署異動があって、ちょっと仕事が出来るようになってきた」と言っていました。これは「休息」の重要さを示すとても大きな教訓だと思います。精神的に追い詰められると、家で休息をとることすら出来なくなるのです。そこで、外形的に「休息」を整え、強制的なリラックス状態を作れる場所を確保することが重要になります。もちろん、僕も導入しているハックです。

心身がボロボロのときに家で「努力」したって結果は出ません。強い意志を持って休むことがむしろ大事なのです。「強い意志」でダメなら、「ここは自分のリラックススペース」という場所を作ることです。椅子1個でも、これは結構成立します。

焦燥感に焼かれながら無意味にスマホをいじったりして過ごすあの時間、実は休息になっていません。「休む」には意思とセッティングが必要です。新人の皆さんに一番大事なのは、まずは「休息」だと僕は思っています。

部屋の兼ね合いなどで出来ることは限られるでしょうが、「休む」環境を作り、効率的に心身を回復させること、意識的にやってみてください。そして「もうだめだ」の原因が、実はあなたではなく周囲の環境ということもあり得ます。その場合、状況に変化が訪れるまでダメージを最小に抑えて耐え切るのがベストの判断ということも、当然ありえるのです。

 

仕事における困りごとの解決

さて、これは結構長期目標です。「仕事が出来るようになる」というのは、自分なりのライフハックを生み出していくということで、それなりに時間も手間もかかります。しかし、第一にやるべきことは「問題点の定義」です。

例えば、「書類にケアレスミスがどうしても発生する」とか「タスクをどうしても放置してしまう」のであれば、まずは一点に問題を絞りその解決策を何通りも試していくことが大事でしょう。何もかもを一発で解決する魔法の解法はありません。「まずはこの問題に取り組む」という姿勢が大事です。そして何より「問題の定義」が大切です。

ご相談のDMを見る限り、皆さんは様々な問題がグチャグチャに絡まりあい、そこに自責の念や現状への不満なども乗っかって、完全に問題が絡み合ったスパゲティになっています。まずはこれをほどいてやるしかありません。

そのために何が必要か。「時間」と「休息」です。厳しいときほど休みは必要なのです。そして、「時間」は先述した「あいつは抜けてるけど素直だし頑張ってる」という評価を受け取ることで効率的に伸ばすことが出来ます。 

その問題のスパゲティコード山盛りを一発で解決するのは不可能です。一つ一つ、ほどいては繋ぎ、整えていくしかありません。「これ以上ぐちゃぐちゃにしない」がまずは大事です。問題を定義し、一つずつ解決していく。これだけは大事にしてください。

我々はタスクが3つも重なると何も見えなくなってしまう人です。だから、まずは一つずつなのです。そして、入社10日くらいのこの状況で「問題の定義」など正確に出来るわけがありません。まずは心身のダメージを最小限に押さえ、生き残りを図るべきでしょう。

 

大丈夫、皆さんは優秀です

何度でも何度でも言います。この早いタイミングで「もうだめだ」という判断が出来た皆さんは、とても優秀です。事態は「否認」のフェイズを抜け「解決を模索する」に入りました。一歩前に進んでいるのです。泣きながら会社のトイレでphaさんの文章を読んでいた思い出が僕にもあります。皆さんの気持ちは痛いほどわかります。

しかし、僕が半年以上かけて認めたことを皆さんは10日で越えたのです。良く頑張りました。本当に良く頑張ったと思います。大したものなのです。

これから「解決」のフェイズは長く続くでしょう。辛いこともあるでしょう。でも、少しずつ発達していきましょう。そういうわけで、新社会人の皆さん。人生の新しい門出、おめでとうございます。

ともにこの時代を生き抜いていきましょう。

やっていきましょう。

クジラフェス2018、そしてクジラについて、あるいは美味とはなにか。

くじらは旨かった、という話を前にしました

以前、「好きなこと書いていいからクジラの話をブログでしてよ、ギャラも払うよ」というちょっと「それマジで言ってんですか」みたいな依頼がありまして、ノコノコとくじらを食べに行った結果「僕がモノを知りませんでした、申し訳ありません。これは本当に旨い食材です」となった出来事があったのは、以前書きました。

 

syakkin-dama.hatenablog.com

こちらですね。このイベントはマジでやばく、僕はひねくれものなので「まぁ、尾の身はそりゃうめえけどさ、まぁたいしたモンじゃなかったよ、食いたいヤツ食えば?」みたいなこと書こうと思ってたら、「すいませんでした」ということになったわけです。

クジラフェス2017in港区は、「ガチモノのクジラはマジでうめえよ」という「素材」としてのクジラをアピールするイベントだったと思います。確かに「肉」としてのクジラのポテンシャルの高さは素晴らしいもので、もちろんさまざまな問題はあるとしても、それでも「うまい」という結論は僕の中で揺るがなくなりました。

その一方で、「最高鮮度のクジラ」がうまいというのは、一つの極めて「現代的な」結論です。「クジラ」が最も消費されていたのは今より大分昔の話で、当時の食卓に上っていたクジラがここまで最高品質のものであったはずはない。愛された文化の根底になっていた「クジラ肉」はこのイベントで僕が食べたものではなかったはずです。

そんなわけで、「福岡でもやるけど、行く?」という声がかかりました。二つ返事で「行きます」と答えました。「今回は野外イベントだから、ぶっちゃけ質は多少落ちるかも」という話は事前にありましたが、僕は「それでこそ」と思いました。今度こそケチつけてやろう、という気持ちもちょっとありました。「最高鮮度でナンボの食いモンですね」という結論もありえると思いました。

で、最初に言うんですけど。すごかったです。「鯨食」という文化の底の深さを叩き込まれる最高の体験になりました。この場を借りて感謝させていただきます。

 

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はい、こちらがイベントのポスターです。下の方にいるマスコットキャラのバレニンちゃんは今回もいました。さぁ、語っていきましょう。

 

やってきました、鯨フェス九州&山口

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そんなわけで、新幹線で5時間くらい。やってきました博多駅。今回は駅前広場がそのまま会場なのでアクセスは最高。到着するなり「思った以上の人気で今は食えるものがほとんどないです」という状態になり、おいおいエライ人気だなという感じです。

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営業再開18時て・・・。壊滅しとるやんけ、というところから始まったわけですが、なんというか、今回のクジラフェス2018in博多、お値段設定が狂ってるんですよ。小鉢に入ったクジラ料理、オール100円。そりゃ食うわって話ですよ。

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んで、今回供されるクジラ料理はこんな感じ。まぁ、味レポは後ほどやるとして、とりあえずこの時間でも開いてるお店で鯨カツを食うことにしました。まぁ、ド定番料理。「揚げれば大体のものはうまい、ブラックバスも揚げればうまい」これが料理の鉄則です。そういうわけで、僕も鯨カツにはほとんど期待をしていませんでした。

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結論から言う。超うまい。クジラのクセがガツンとあり、齧ると強烈なうまみが口いっぱいに広がります。ものすごく味が濃いからとんでもない満足感があるんですが、食べてみて思ったより肉が薄いことに気づきます。これで大正解です。これ以上肉が分厚かったらクドくなります。「旨い食い物」ってのは、大体万人がウマイというものではありません。「クセ」や「臭み」と「旨さ」ってのはギリギリのところでせめぎあっています。この鯨カツは、まさにそのギリギリをついています。

これ以上クセが勝ったら厳しい、でもこれ以上味が平板になったらつまらない。まさに「クジラを食った」という満足感があります。この後、主催者の方に聞いたところ「鮮度は良いやつ買ってくよー」って話なので、おそらくタレに漬ける段階で一定の「熟成」のような工程を経ているのでしょう。

クジラは非常にうまみが多い食材であることは既知ですが、これはかなり驚きです。肉の鮮烈な香り、そしてそれを受け止める甘辛のしっかりしたタレ。非常にレベルの高い「料理」です。しかも、そのうまさはどちらかといえばジャンクフードのうまさ。人間の食欲を強烈に煽る、あの味です。気取らない、地に根付いたうまさです。

「最高鮮度のクジラは何のクセもない」という体験の後に、これは僕にとって非常に鮮烈でした。料理人にとって「クセのない食材」は「つまらない食材」でもあります。むしろ、非常にクセのある食材のクセを「個性」として乗りこなしてこそ料理。非常に水準の高い技術があることがわかってきます。…正直どうやってるかわからんけど。どうやんのあれ?

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最初はあんまり売れてなかったのかなーって感じでしたが、1枚目の通りじきに人間が無限に群がってました。そうなると思います。あれはマジでうまい。「炸裂する」うまさです。長崎行ったらこれは食った方がいいです。鯨専門店くらさき、覚えた。

 

さて、食っていきましょう

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さて、今回の鯨フェス2018in博多、テーマは「肉」ではありません。「シロデモノ」いわゆる、クジラの肉以外の部位です。皮下脂肪、筋など「赤肉」以外の部位もクジラからは大量にとれるので、それを食う文化があるわけですね。鯨汁、だご汁、粕汁、トマト煮など、さまざまな工夫を凝らされた鯨料理が並びます。

さて、クジラのシロデモノ。「さえずり」なんかは美食趣味の方はご存知でしょう。これはまぁ、クジラの舌です。さえずりのスープ、上品なカツオだしにさえずりから僅かに立つクジラの風味がたまらねえ。粕汁も実に上手にクジラを使ってます。歯ざわり、舌触りは、クニュクニュという感じ。スープのとても上品な浮き実です。

クジラの皮下脂肪や筋といった部位をさまざまな味付けで食べました。会場には、プーンとクジラの匂いが満ちています。この「匂い」が、食べ進めるうちに「食欲をそそる良い匂い」になっていくのが面白かった。味覚と嗅覚が、徐々にクジラに慣れていくんですね。トマト煮は少しケンカしてるかな?という感じだったけれど、好みの範囲だと思います。どれも、「これがうめえんだよ」というそれぞれの調理者の気迫を感じる良い料理です。

ここまで食べてみて思ったのですが、これ文脈として「ラーメン」に似てます。シロデモノは「それだけ」を食べてうまいものではありません。ダシ、具材、調味料、そういうものと組み合わせてこそ真価がでます。ここで面白かったのが、「クジラにはちょっとクセがあるから、味の強いものとぶつける」が必ずしも最適解ではないということです。

例えばカレー。十分に「美味」の水準ですが、クジラのくせはほとんど「野菜とクジラのスープ」である「野菜たっぷり鯨汁」よりもむしろ強く感じます。やわらかな野菜の甘みでくるんでやった汁は、ほとんどクジラのクセなど感じさせず、シロデモノのやさしい食感とあいまってまさしく「滋味」という感じです。身体の中に滋養がしみこんでくる、やさしい味わいでした。

他にね、まぁさえずりはうまいのは知ってる。ウヒョー300円、そりゃ食うよ。うむ、上品なカツオダシの上にクジラの風味がのり、舌触りがたまんねえ。後、「塩クジラ」こいつがまたガツンと強い。塩漬けの干物なんですが、クジラのうまみ爆弾。ただし、塩気もクセもガッツリです。このあたりから「借金玉という生物がきているらしい」と聞きつけた人類が集まり始め、

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「人生はままならない」という同意の握手が参加者同士で行われるというなかなかの人間が行われておりました。地酒なども入り始め、徐々に曖昧の様相を呈していきます。うむ、クジラうめえな。一癖あってうめえな。

 

クジラヒアリング大会ークジラは子供も食べられる刺身

そんなわけで「借金玉という生物を観測しよう」という人類がわりといっぱい集まったので、クジラヒアリング大会を催してみることにしました。これは喫茶店で行われたのですが、博多、何故か異常にコーヒーに気合の入った喫茶店が多く、ちょっと移住したくなった。うまいコーヒーを飲みつつ現地民の皆さんに色々聞いてみました。

すると、非常にはっきりした年代ごとの区別がわかりました。

50代、クジラは日常食材だった。食材の格付けで言うと、馬刺し>鯛などの刺身>鯨の刺身、という位置づけだった。シロデモノはむしろ高級という印象があったが、とにかくスーパーには並んでいた。「子供も食べられる刺身」だった。

40代 クジラは馴染みがある。月に2回くらい、ナポリタンスパゲティと同じくらいの頻度で食卓に上った。カツか竜田揚げがメインの食べ方。

20代 給食で年に2回くらい出た。家では食べたことはない。外食でもめったに食べない。でも、食べたことはある。うまいか、といわれると「あまり知らない」という印象。

これは、非常に面白い区分でした。僕は北海道の生まれで30代ですが、クジラという食材にはほとんど馴染みはありません。質の悪いクジラベーコンと、ちょっとお高い店で尾の刺身を食った、あとは居酒屋で「大してうまくねえな」と思いながら半解凍のクジラの刺身を食べた程度です。しかし、50代の人にとってはまさしく日常食だったわけですね。世代の断絶が起きている、ということです。

たまたまヒアリング会場に30代がいなかったのでこのあたりは不明ですが、どうもこのあたりで断絶が起きているようです。で、調べてみたら日本が商業捕鯨の停止を受け入れたのが1985年。なるほど、ちょうどここで断絶が起きたのはとても納得できることです。結果として、「失われた時間」が出来てしまった。鯨食文化はそこで一度断絶してしまったんですね。細々と生き残ってきたのはあるでしょうが、供給が止まれば当然ながら食文化は日常と離れていきます。

この是非については問題にしません。資源の保持はとても大事なことだし、結果としてクジラの資源が保全された、というのはあると思います。ここで重要なのは「クジラは一度、日常食から切り離されてしまった」ということです。

 

クジラの保存方法

今回は実際に調査捕鯨に関わる皆様からお話を聞くと、僕の大まかな理解ですが、クジラは「コンタクトフリーザー」という設備で捕獲とほとんど時間をおかず、即座に冷凍されているようです。マイナス50度で7時間という強烈な冷凍設備です。これは、いわゆる死後硬直が始まる前にカチンカチンに凍らせてしまう設備です。

現状「フレッシュのクジラ」はこのルートの場合流通不可能だということがわかりますね。そして、クジラの死後硬直は解凍したときに始まる。これが、前回の記事で書いた「強烈なドリップの発生」の要因にもなっているようです。この処理が食味のために正しいのか、僕には判断できません。現状、「味」のための研究などはほとんど停止された状態にあるとのことです。この辺には大人の事情があるんだろうな、というところで僕は取材を止めました。「最高のクジラの処理の方法」は僕にもわからないし、口出しできることでもありません。

ただ、「現状に満足はしていない」という言葉があったことだけは添えさせてもらいます。確かに、もう一工夫でもっと美味しくなる気はします。食肉の処理技術は桁違いに進歩していますので、「ベストな食味」を目指すことはできるかもしれません。この辺は消費者が現状のクジラをしっかり食べつつ、「もっとうまいの食いてえ」と言っていくしかないところですね。

このコンタクトフリーザーによる冷凍という処理も数十年前からあまり変化していないようです。つまり、こちらも時間が停まっている。これは取材した僕の勝手な思い込みかもしれませんが、停まった時間を動き出させたいという思いがあるような気が、なんとなくしました。僕としては、うまいくじらが食いたいので、「よっしゃ、動き出させようぜ」という気持ちがあります。皆さんはどうですか?

ちなみに、現時点でもクジラは非常に衛生的な処理を経て流通しています。この辺、会場に細かい説明がありましたが「すげえなぁ」という感じです。あの巨大な身体を海から引っ張り揚げて、うまい肉にする。これは簡単なことではありません。食肉処理というのは、完全なる専門技術です。牛や豚もそうですが、うっかりすると人が死にます。限られた状況下でベストを尽くしている現場の皆様には、頭が下がる思いです。

 

クセを楽しむ

さて、ここまで書いてきて僕は「クジラのクセを楽しむ」という文化が、きっとかつては存在していたんだろうな、という気がしてきました。これは、集まってくれた皆さんと一緒に博多ラーメンを食べているときに気づきました。本場の博多ラーメン、現在では方向性が二分化されているようで「これはほとんど豚のポタージュスープでは」とでもいうようなクリアでクセのないものと、ある程度意図的にトンコツの臭みを残したものがあります。そして、現地の皆さんに聞くと「クセがあるのが標準、みんな好き」と言っていました。

あの、ムワっとクセが香るスープにカラシ高菜と生姜、ニンニクなどを放り込むと、胃の底からこみあげるような食欲がやってきます。これは中華やアジアンエスニックなどにわりとよくある技法なのですが、臭みのある食材とスパイスを上手に合わせると「爆発」としか表現できない味わいの広がりが起きます。特にこれはジャンクフードの技法として汎用的といえるでしょう。一癖ある、しかしクセになる。食欲がガンガンかきたてられる料理ってそういうものじゃないでしょうか。

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それを代表する料理がこれだと思います。これは会場で供されていた、「クジラのオリーブオイルとオタフクソース焼き」です。これがね、うっめえのよ。まさしく漁師料理って感じですが。オリーブオイルの香りの上にこげたソース、そして肉のうまみ。爆発的にうまい。上品では決してないが、胃の底から腹が減る。これは人間をどんどんかきあつめる(こげたソースの香りに抗える人間などいるだろうか?)料理なので、必死で写真を撮ったんだけどこんなもんになった。許せ。

鯨カツもそうでしたが、これも調理方針としては同じだと思います。クセに強烈な味わいをぶつけて爆発させる。そこから産まれるまさに地に根付いた味わい。こういうのがうめえんですよ。クジラ、必ずしも「最高鮮度ならうまい」ではないですね。一定のクセや臭みを許容して尚、いやむしろクセや臭みがあるからこそ楽しめる美味がある。

僕は北海道の出身で、北海道の人間はどちらかというと「食材の新鮮さ」や「臭みの少なさ」を尊びます。しかし、クジラというのは本来保存性に優れた食材です。鯨捕らわば七浦潤う、なんて言葉もあるとおり「流通できる」食材だったんです。現代のような冷蔵設備がない時代でも、です。シロデモノもそうですが、臭みやクセを「美味」に転嫁する技術がきちんと存在しているのです。

こういった文化はきっと、商業捕鯨が停止してからかなりの部分が失われてしまったのでしょう。しかし、鯨カツがあり、様々な汁料理があり、オタフクソースとオリーブオイルで焼く人たちがいる。大丈夫、ちゃんと残ってる。そして、このイベントが「汁物」に寄ったメニューだったのもきっとそういう意味だと思います。

かつては「俺んとこの汁が一番うまい」、とでもいうような。現代だと、ラーメン屋が競い合っているような文化があったんだと思います。どれも、クジラ特有のクセをむしろポジティブに捉え、それを「押さえ込む」とか「消す」ではなく、相乗効果の「爆発」を狙う料理だったと思います。東京鯨フェスは「最高鮮度」だったのに引き続き、今度は「鮮度が悪くても、コンディションが悪くてもそれを楽しむ」という文化に触れた気がしました。そして、これはサンプルが博多だけなので言い切れないのですが、このあたりの地域にはそういった食文化が根付いているのではないかと思います。博多ラーメン、まさに「クセを楽しむ」料理ですしね。思わず2軒ハシゴしちゃいましたが、うまかったです。

 

時間はまた、動き出す

中華料理なんかでメジャーな思想ですが、良い料理とは「コンディションのイマイチの食材から美味を作り出す」ものです。世界中に、こういった料理は存在します。クジラは「最高鮮度なら信じられないほどうまい」ものであると同時に、バッドコンディションでも旨くできる、ものだということです。

クジラは「最高の素材を使ってうまくする」では片手落ち。むしろ、塩鯨のような「クセも臭みも大いにあるが、それをうまくする」文化でもあることを確認しました。まさしくそれこそが「食文化」だと思います。一杯100円の椀から立ち上るクジラの香りは、まさしく歴史の中でつむがれてきた文化の香りだったな、というとこです。カッコつけすぎですかね。

最初は「うん、やっぱクジラの匂いはクセがあるな」と思っていた空気も、2日目には「腹減るなこれ」になってました。クジラははるか古来から食べられてきた食材です。その「最高鮮度じゃなくても最高にうまくする」料理にも、再び目を向けるべきでしょう。そして、赤肉だけではなくシロデモノもガンガン旨く食っていく必要があります。うまい料理考えなきゃなー、負けてられないなーというところですね。クジラ料理の停まった時間、また動かしましょう。大丈夫、今は世界各国の調理技術が一般にも浸透してます。やり方はいくらでもある。

そして、「バッドコンディションでも旨くする」というと、まるで「まずいものをうまくする」みたいな感じですが、そういったクセや臭みを生かした料理というのは、人間の本質的な食欲を呼び起こすものになりえます。「美味」とは何かについて考え込まされる小旅行でした。それでは最後に僕の一つの答えとしてのレシピを提示してこのお話を終えようと思います。

 

塩鯨のチャーハン、中央アジア風。クミンの香り

塩鯨を刻み、ゴマ油でよく炒って、ある程度臭みを飛ばします。(謎の理由で信じられないほど泡立つが気にするな)そこに唐辛子とニンニクを投入し、香りを立てます。ここで、「腹が減る」としか言いようのない香りが出てきます。これは、「塩辛のチャーハン」なんかでも使う技ですね。ああいううまみ爆弾系の臭みのある食材は、油と合わせて火を入れてやることで良いところだけを取り出せます。(こないだ「塩辛のイカゴロは半分焼く」という秘密技をyoutubeで暴露してた人いましたね、あれは流石に秘密にするべきだったと思います。)

しかし、これでもまだ不足。クジラのパワーにメシが負ける。そこで投入するのがクミンです。実は、最初の炒る段階でホールのクミンを、仕上げに粉のクミンを加えます。これは、必ずしも良質とは言えない羊をうまく食うための、やはりアジアの技法です。もう少し複雑な辛味が欲しいな、と思ったのであら挽きの胡椒も投入。酸味が欲しいな、と思ったのでケッパーも少々。んで、卵を入れる。ラーメン屋スタイルの卵後入れ方式です。仕上げに紹興酒少々で香りを乗せて、ちょっと食感が欲しいので薬味の玉ねぎの千切り。唐辛子も振っとくか、こっちは韓国の。塩は味見ながら入れてください。たぶん、クジラとケッパーの塩でキマると思う。

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うめえ!

塩鯨はやっぱりうまみ爆弾ですね。強烈なうまみに支えられ、そこにスパイスの複雑な香りが乗り、ちょっと重たいな、というところをケッパーの酸と風味がシメてくれます。ハイパー無国籍クッキングですが、ほぼ予想通りの味になりました。カリっとした塩鯨も噛み締めるとクジラの風味が広がります。超うめえ。

ベーコンより扱いは難しいですけど、やはりうまいことやると破壊力は段違いです。わかってきたぞ、クジラのクセの使い方が。塩鯨500グラムくらい追加するか。これはうまい。クジラのツンと抜けるクセをスパイスがうまく押さえ込んで、奥深いジャンク美味を作り上げています。鯨カツと全く同じ方向性のうまさですね。

クジラ、うまいです。食いましょう。もし目の前にあるクジラがイマイチの品質でも、うまく食いましょう。これからの鯨食文化は、作り上げていくものです。

やっていきましょう。

 

逃避と気持ちの入れなおし日誌。いつも本当にありがとうございます。

いっぱい喋ってます

最近は、講演をさせていただいたり、商業媒体で記事を書かせていただいたり、あるいは借金玉バーなんてものを開催して拙い料理を出しつつたくさんの人に構ってもらったり、色んなことがありました。その度に大変ちやほやしていただけて「ああ人生頑張ってるといいことあるなぁ、みなさん優しいなぁ」…と思ったり、あるいは「もっと上手くやれたな…」と後悔したりしています。

僕は「語る」こと、あるいは「書く」ことに人生の多くを費やしてきました。(僕の中では語ることと書くことの間に区分はありません)二十歳くらいの頃は本気で作家を目指して挫折して、サラリーマンをやって挫折して、起業して挫折して、再び文章と語りが人生の多くを占めるようになるなんて不思議なもんです。

僕が人生を通して「やってきた」と言えるのは書くことだけで、柔道もギターもサラリーマンも料理人も起業も全て挫折しましたが、それらの経験を総動員して「借金玉」という存在が(存在なのか?)が成り立っている気がします。ささやかに、「まぁ、頑張ってきたよな」と自分を認めてやりたい気持ちも最近は出てきました。

僕をウォッチしてる人はわかると思うんですが、僕は承認欲求オバケです。認められたい、褒められたい、チヤホヤされたい。それが原動力です。(あ、あとお金も欲しい)ところが、この承認欲求オバケというのは「自己承認が低い」ことの裏返しだと思うんですよね。結局、自分で自分を認めてやれないから、塩水をガブガブ飲むみたいに無限の承認を求めるわけです。そういうの、もちろんモチベーション源としての有用さはあるけれど、必ずしもいいことじゃないですよね。

 

たくさんの人たち

色んな人がいるなぁ、と思います。感じのいい人もそうでない人も、上手くやれる人もやれない人もたくさんいます。そして、インターネットを通じた表現活動に生活の軸が移ると、やはりインターネットを軸にした表現活動を生活の軸にしている知己が増えるわけですが、これがまた実に多様な人たちです。

僕は今、人生で一番知人が多い時期を過ごしているのですが、僕の中で「かくあるべし」みたいな強迫観念になっていたものが、少しずつ減っていくのをとても強く感じます。僕が「かくあるべし」と思っていたところから大きく外れても、それは世間的には必ずしもまともと言えることでなくとも、心からの好意と敬意に値する人がたくさんいます。それっていいことですよね。

やはり、なんというか僕も大分フリーキーな人生を送って来たほうだと思うのですけれど、それでも「かくあるべし」みたいな脅迫観念ってやっぱり存在しているんですね、それなりに強固に。それはそれで、一種の自己規律としては大事なものだというところもあるかもしれないけど、冷静に考えてみると「かくあるべし」の根拠って思ったほど強くなくて、「あれ、なんであんなに焦ってたんだろ?」って思うことが多いです。

多くの人が、色んなものに縛られて、それでもある部分ではとてもフリーキーに生きていて、もちろん人生の全てがフリーキーにやれるわけじゃないんだけども、それでも僕あの人好きだよな、じゃあそういうところってそんなに強迫観念にしなくていいよな、そんなことを思いました。うまく表現できないんですけど、伝わってますか?

 

何を書いても叩かれはしますね

たくさんの人に文章を読んでいただくと、やはりというべきなんですけど怒られることもあります。それは、僕の至らなさであることももちろん多々あって、ある時期までは「批判には時間の許す限り目を通す」というポリシーでやっていたんですけれど、流石に最近は疲れ果ててしまって、目に入った批判の中で突き刺さったものには感謝を捧げる、という方針に切り替えました。本当はよくないと思うんですよね、本当のことを言えば批判も中傷も全部読んだ方がいいと思います。でも、ちょっと負荷が大きすぎる。「批判」ではなくて「中傷」に出会うとどうしても「ふざけるなよ」って思ってしまいますし、そういう感情ってとても制御し難いです。

特に、精神的に堪えるのが発達障害を持つ当事者からの罵倒で、「いや、それは違うよ」って思うことが多いんですけれど、言葉を尽くして説明してもやはり伝わらない。たとえば、僕を「詐欺師」と罵倒されている発達障害当事者の方がいらっしゃって、この方に僕はツイッター上で可能な限りの説明を尽くしたのだけれども、結局は何も変わっていない。

その方は僕がツイートをたくさんしていて、「発達障害就労『日誌』」なのに、仕事の毎日の日誌が書かれていないことから、僕を「就労していないし発達障害者でもない詐欺師」と罵倒されているんですが、この誤解を解くのは不可能に近いんだろうな、という諦めが出てきました。僕は今、会社を経営してマイクロな(ショボいともいう)事業をやりつつ、週に3日程度の営業マンとして働き、あとは文章を書いてご飯を食べているのですが、それが「就労」と認められないのはとても悲しい。僕なりに一生懸命、必死で働いているんですけどね…。

気持ち的にちょっと難しいのは、同じ発達障害を持つ当事者に対して「この人には何を言っても通じない、発達障害者だもの仕方ない」という発想を持つのもそれはそれで間違っている気がするんです。「ふざけるな、それは事実に反するし侮辱であり中傷だ」と怒る方が誠実な態度だと思うし、同じ発達障害当事者として見下すような態度を取りたくないんですよ。だから、これまではかなり「怒って」来たのだけれど。最近は「もう、ちょっとムリだな」と思うようになりました。

僕が色んな人やあるいは取るに足らない罵倒にいちいち激怒しているのは、色んな人に「やめろ」って言われたことなんですけど、僕なりに「でも、そこで怒らなかったらダメなんじゃないか?」って思いがあったんですよ。これは、ちょっとバランスを考えていくしかないだろうなって思います。「発達障害当事者だからしょうがない、悪意があるわけじゃないんだろう」みたいな考え方を採用するしかないのかな、って思います。あんまりしたくはないけれど。

借金玉はもちろん、ある種の商業性を帯びた存在なんですけど、純粋に商売にしたくはなくて、怒るべきところでは損得抜きで怒る人でありたいんですけれど、本当に難しい。でも、これからもまた怒ることはあると思います。それをやめたら一番大事なところが失われちゃう気もする。なんというか、死なない程度にやっていこうと思います。

 

カメがエサを食べるようになりました

最近あったささやかないいこととしては、冬を迎えて越冬環境(温室)に移行したカメがエサを食べるようになりました。僕はニホンイシガメを1匹飼っているのですけれど、こいつが本当にナイーヴなやつで、ちょっとした変化ですぐ拒食をするんですね。目がクリっとしてて顔が小さくて、とても可愛らしいカメなんですけどね。ワキャワキャとよく走り回りますし。本当に気が小さくて弱いんです。ミシシッピクサガメに押されて個体数が激減してるというのも「そりゃそうだよな」という感じがします。ミシシッピなんて、本当に強いですからね…。

栄養剤を与えたり、温度を上げたり、大好物のエビを与えたり色々やった末にやっと食べるようになったので、喜びもひとしおです。毎年この時期(越冬環境への移行時期)恒例の拒食なんですが、毎度ヒヤヒヤさせてくれます。去年は獣医さんに栄養剤を注射したりもしてもらいましたが、今年はなんとかこのまま乗り切れそうです。そういうささやかないいことを大事にして生きてます。

 

やっていきましょう

さて、ブログの更新が随分滞ってしまいましたが、書きたいネタはまだまだありますので、これを潮に復活させていきたいと思います。ただ、仕事のスケジュールが大変ひどいことになっており、全て僕の不徳の致すところで(実はこの更新も仕事からの逃避です)遅れている仕事もブログも他の仕事も必死で追っていきたいと思っています。

なんにして、「借金玉」で縁の出来たみなさん、あるいはこのブログを読んでくれるみなさんは僕に新しい世界を与えてくれましたし、もう少しこの方向に走ってみたいと思っています。まだやれることがあると思う、楽しいことばかりじゃないだろうけど、伝わっている人がいることが確認できたのはとても励みになっています。不義理ご無沙汰している方たくさんいらっしゃいますが、いつもとても力をいただいています。読んでいただいてありがとうございます。

まだやれます。至らぬことばかりのポンコツですが、やりたいと思っています。体調管理に失敗して高熱を出したり、躁鬱のコントロールに失敗して動けなくなったりもちょくちょく発生していますが、それでも年単位のスパンで見るといい方向に向かっているのは体感できます。書くことで一番治療されているのは僕自身です。

いつも僕の言葉は足りなくて、多すぎて、間違っていて、本当にすいません。もっと上手にやれれば色んな人を不快にせずに済むのにな、という気持ちは強くあります。もっと上手になるために、書いていくつもりです。

ぜんぜんだめ、なところがまだたくさんあります。そこは直していきたい。特に、仕事をきちんとスケジュール通りこなすことが、最近は非常に難しく感じています。文章を書くのが一種の義務になると、それに付随する辛さも出てきました。でも、それって当然のことで、それを上回る喜びがあるんだからグダグダ言わずに書きます。本当にダメならギブアップして休みます。そういう感じでいこうと思います。

これからもきっと、多くの失態とやらかしと怒られがあると思います。恥も晒すと思います。多くの人に失望されることだろうと思います。これまでもそうだったし、これからもそうでしょう。でも、諦めるつもりはない。僕は書きたいし、読んでもらいたい。僕みたいなあなたを救いたいし、僕が救われたい。僕みたいじゃないあなたも救いたいし、何より僕は救われたい。

まだ、借金玉は続きます。もし、気が向きましたら読んでくださるととても幸いです。本当にありがとうございます。少しずつ、僕は良くなっています。あなたのおかげです。まとまりも内容もない雑記で恐縮ですが、ここまで読んでくれて本当にありがとうございます。

やっていきましょう。やっていきます。

鯨フェス2017に行ってきました

呼ばれました

唐突に某社からお呼びがかかり「鯨フェスってイベントがあって、希少な尾の身とかもめっちゃ食えるから食ってよ。そんで、好きなように好きなこと書いて」ということになりました。もちろんギャラも出ております。

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https://www.facebook.com/kujirafes2017/

大変フリーダムな依頼で、僕としては「マジで何の指示も受けてないんだよ」としか言いようがないのですが、とりあえず「依頼があり仕事として行った」というのは明示しておく必要があり、このような書き出しになりました。

つまり、僕のこの文章には誰かの政治的な意図が含まれている可能性が全否定はできないということです。この世の情報は大体そういうものですが、まぁそういうわけで好きなこと書きます。マジで何の指示もされていない(証明できない事実)ので、怒られが発生した時のことは深く考えないことにしましょう。

それで、まずですけど。すごく良いイベントでした。大量の鯨肉と気合いの入った料理が並び、とりあえず「僕は鯨について食材としても無知だった」という感想があります。鯨、奥が深い。あと、写真がひどいのは許せ、とにかくセンスがないんだ。近いうちになんとかします。

 

政治的なお話

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で、まぁ鯨といえばこういう要素があるわけです。僕はこれに関して基本姿勢として「他人のメシにケチをつけるほど野蛮なことはない」という考え方を持っています。韓国や中国で犬を食材として扱うことにケチをつける人も結構みかけますが、僕はそういうの大嫌いです。気合いの入った文化相対主義者なので。あんたが嫌うのは自由、でも他人のメシにケチはつけんな。

僕は犬も鯨もうまければ食います。うまいか不味いか以外にあんまり興味がありません。もちろん、個人的な思い入れや信仰の問題で「食わない」という人を批判する気もありませんが、僕はどんな食材もとりあえず食うがモットーです。犬もわりとイケます。

「おまえは犬が可愛いと思わないのか」みたいな怒りはちょっと僕は理解できなくて、犬可愛いですよね。その上美味しい。これが両立するのが人間というもので、ミニブタだってニワトリだって普通に可愛いですよ。牛なんかめっちゃ懐っこいです。食ってよし愛でてよしというのは人間の本質で、別段なんの問題もないんじゃないですかね。馬だって可愛いけどうまいし。羊はちょっと無機質な殺人機械みたいな雰囲気があるので、成獣になるとあまり可愛いとは言えない気もしますが。

もちろん、生態保全や絶滅回避の意図で「鯨を獲らない」というのは一理あると思いますし、それは個体数なんかと相談してやっていけばいいと思うんですけど、基本的には鯨もうまいなら食えばいい以外に感想がありません。

この辺、参考資料としていただいた(どうしてもサムネイルにならない)

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 こちらの「おクジラ様」(佐々木芽生著)という書籍に詳しいことが書いてあって、まぁ「そんな感じだよね」ってところなんですが、まぁ世の中厳しい。他人を尊重することは難しく、鯨をある種の神体として崇めるみなさんとの和解は難しそうです。

 

鯨はうまいのか、まずいのか

で、まぁ僕として問題はここなんですよ。で、正直に言いますと僕は鯨に食材としてあまりポジティブな印象は持っていませんでした。「まぁ、独特の風味のある肉だよね。水っぽくてクセがある。脂のサシの入った尾の身は脂の融点が低いだけあってそれなりの味だけど、やっぱクセはあるし別にそんな必死になって食うほどのモンではない」という感想でした。僕も結構興味はあるほうなので、そこそこ鯨は「見かけたら食う」くらいのことをしてきたのですが、その結果としてこれくらいの感想の人が多いのではないでしょうか。

実際、鯨がうまいのか不味いのかは意見が分かれます。捕鯨論争になると、この論点で人間が罵り合っているのをよく見かけます。で、味覚というのは土着的なものでもありますし、経験にも左右されますから「まぁ好きな人もいるんだろうなぁ」程度のところで僕は納得していました。しかし、正直鯨フェスの肉を食べて驚きました。

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これはフェスで展示されていたイワシ鯨の尾肉の端切れで、市場でもそうそう見かけない最高レベルの品質のものですが、このレベルの鯨肉には僕が「鯨特有のクセ」だと認識していた風味が存在しませんでした。脂は口の中でとろりとほどけ、獣肉とも魚肉ともつかない滑らかな口当たりのあと、花開くようにうまみが広がります。これは文句なしにうまいです。おそらく、マグロと馬刺しが問題ない人なら誰が食ってもうまいです。

肉の密度やモッチリとした歯ざわりは馬肉に劣りますが、代わりに口の中でほどけていく滑らかさがあります。そのうえ、とろける脂のうまさが乗っかってくる。もちろん、水分の多さに好みは分かれるかもしれませんが、客観的に見て「うまい肉」です。醤油つけてもいいですが、もう一工夫の余地があり塩ベースになんらかの風味を載せてやることで更に旨い可能性があります。また、フェスでは出汁醤油を置いていましたがあれもひとつの工夫なのかもしれません。(確かに合っていた)味のベクトルが「淡さ」にも振れていて、初鰹を好む日本人の味覚にハマる味です。

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「尾の身は鯨の中でも希少部位、うまいのは当たり前」と思うかもしれません。でも、この赤肉のローストは更に驚きでした。正直、「鯨は火を入れるとスカスカになって血なまぐさくてちょっと」という風に僕は考えていたのですが、このローストはその先入観を完全に裏切る味でした。

まず、臭みがない。その上、特有のうまみが非常に強くあり、火が入ることにより活性化している気がします。「スカスカ」という問題も、火入れが巧みなこともあり見事に解消されている。火の入った部分の噛みごたえとレアの部分の肉質が同時に口に入るのがとても良い。脂の不足はオイルベースのソースが見事に補っています。僕の嗜好が赤味肉に振れたのもありますが、僕はフェスに出た料理でもこの一品が一番うまかったです。つまり、質の良い鯨は廉価な赤肉の部分でも十二分にうまいんですね。鯨はうまい。これがまず事実です。

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これは尾の身の中でも1級、最上級部位ですが流石にすごいうまさです。やばい。初めてここまで品質の高いものを食いましたが、ちょっとよくわからなかったのであと2キロ食いたいです。赤肉もあと2キロ欲しい。くれ。なんでもキロ単位で食わなきゃわからないんだ。

 

鯨はまずい

さて、では「鯨なんて不味い、わざわざ食う価値なし」と主張されていた方はいわゆる舌バカで、イデオロギーで味覚がダメになった皆さんだったんでしょうか。僕は違うと思います。多くの「鯨は不味い」論者は真実を語っているでしょう。

というのも、前段落の最後の尾の身の画像をよく見てください。ドリップがすごいですよね。これ、加工工場から出荷された肉を開封してわずか1時間半ほど後の画像です。フェス開幕直後にはほとんどドリップしていなかった肉が、解凍が進むにつれ水浸しになっていました。

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これなんかも見ていただければわかりますとおり、鯨肉のドリップしやすさは半端じゃありません。その上、おそらくですが空気に触れるとものすごい速度で劣化が起きているようです。つまり、「味の落ちやすい肉」なんです。フェス序盤にカットされた肉を1枚キープして、帰りしなに食べましたが「鯨の風味」だとかつての僕が認識していたクセが早くも顔を出していました。保管を間違えば、「スカスカの臭い肉」に化けてしまうのはおそらく間違いないでしょう。

また、部位によってはカットしたてでも「クセ」が発生しているものがあり、おそらく加工段階でも劣化が始まっているのでしょう。本来、鯨肉は「鯨九十九日」といわれるくらい日持ちがするとされるものですが、それは「食べられる」という意味で、味覚的なMAXの美味しさは非常にたやすく失われてしまうのだと思います。

フェスの鯨肉は加工工場から冷凍パウチの状態で直送されてきた「これ以上良質なものはない」レベルのものです。しかし、現実に我々消費者が鯨肉にありつくときは、このパウチが更に小分けされトレーに並んでいます。これがどういうことかというと、「そりゃそうだよね」という話になります。僕も今後鯨を食う時はなるべく大きい塊で買い、冷凍にはかなり強いということなので食べきれない分は即冷凍しようと決めました。食べる側にリテラシーが必要です。パックの小分け肉は表面を焼きこむなどの工夫で美味しく食べられる可能性もあります。もしくはトリミングか。

おそらく、「鯨がうまい」と主張される方はある程度品質管理の行き届いた鯨肉を手に入れる環境があった、もしくは思い出補正で上ブレしている可能性が高いと思います。これは本当に難しい肉です。鯨を扱う飲食店の苦労は計り知れないものがあります。僕も最初の一口を食べたときは「これどこで仕入れられるんですか!」と叫んでしまいましたが、正直この肉を扱いきれるか自信はありません。

うまい鯨肉に出会った時は、そこに人間の計り知れない労力が、捕鯨船から皿に至るまでの「鯨を少しでも旨く食わせよう」という気持ちが込められていることを理解する必要がありそうです。

 

これからどうなっていくのか

はい、そういうわけで鯨の食肉としての性質はかなり「難しい」ことがわかりました。正直に言えば、二次流通三次流通、そして各ご家庭での保管を含めると問題は山積していると言えます。しかし、人間というのは工夫する生物ですし、鯨フェスにいらっしゃっていた生産や加工に携わる皆様の熱意もまた半端ではありません。

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写真がひどいのは許せ。(本当にすいません)例えばこれです。これは、ウェットエイジングを試みているんでしょう。その上、鯨肉の性質に合わせて低温で熟成しているようです。肉というのは一般に新鮮であればいいというものではなく「熟成」の工程を必要とします。それは鯨も例外ではない。しかし、鯨のような劣化の極めて早い肉は「劣化させずにうまみを出す」というのが大変難しい作業になります。

生産者の「やってやろうじゃねえか」の結晶がこの商品なのでしょう。すごい熱意です。「凍温」熟成というのは聞き覚えがなく、色々やったんだろうなぁ…という気持ちになります。(どういう原理なんだろう、今度この商品探して食ってみよう)

真空パックであれば空気と触れることによる劣化もかなりの部分が補えますし、熟成が可能になるなら僕がフェスで食べた「最高に新鮮な鯨肉」より更にうまいものが出現してくる可能性もあります。人間はやっていく。うまいのまずいの手も動かさず講釈をたれている僕は頭が下がるばかりです。

こういった加工の手間は当然コストフルです。「うまい鯨肉」を食うには「価値に見合う金を出すぞ!バッチ来いや!」という消費者の気迫が必要です。生産者のやっていく気持ちと消費者のやっていく気持ちがぶつかった場所に最高の商品が生まれていく。鯨フェスも当然そういう試みのひとつなのだと思います。

やっていって欲しいという気持ちになりました。もちろん、商品開発や技術開発は試行錯誤の繰り返しです。一手で全てが解決することなどありません、今日より明日、明日より明後日、よくなっていくでしょう。ところで会場で「私は鯨のクセを完全に除去することに成功したぞ」と吼えている加工業者の社長さん?を見かけましたが、あまりに人垣に囲まれていたので「それ詳しく」と言えませんでした。非常に興味がありますので、もしこのブログをご覧になっていたら詳しく教えてください。

 

調理と加工食品

さて、ここまで鯨の食肉としての性質ばかりに言及してきましたが、それだけでは片手落ちです。流通が現在よりも未発達だった時代から鯨は食べられ続けています。そこには、調理や加工といった技術が欠かせなかったでしょう。鯨の「肉」だけではありません、ヒレやスジ、内臓といった部位も当然存在します。

この辺は僕が講釈をたれるよりちょっと調べていただければわかるのですが、「全部食うぞ」という人間の気迫が感じられるエリアです。

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写真がひどいのは許せ。これはどちらも感動情報です。1枚目は鯨の煮付け、2枚目はベーコンですがどちらも僕が過去に食ったものとは桁外れに旨かったです。煮付けはゼラチンの部位と赤身の部位が入り混じるところを的確に用いており、ゼラチン質のトロリとしたうまさと赤味のクシャっとほどける食感が補い合って最高の味でした。ベーコンはね…僕正直鯨ベーコンって好きじゃなかったんですよ。あのクセが。でも、このベーコン臭みはゼロでうまみの塊でした。やばい。

「パサつく赤身」を補うのは尾の身の脂だけではなく、鯨に豊富に含まれるゼラチン質だということがわかります。この辺になると脳がバカになっていたので「うまい」以外の記憶があまり残ってないのですが、超うまかった。

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この辺も当然のうまさなんですが、スジポンが特筆すべき味でした。すげーうまい。これ発注しようと思ってます。加工食品というのは保存性とうまさの両立という人類のやる気ポイントで、まさしく文化の極地なんですがかなりハイレベルです。鯨の皮の加工食品も「表面の黒いところは鯨の皮です」という説明とともに供され、なるほど全部食うんだなぁという感動があります。

これが文化じゃなくてなんなんだよ、という気持ちにはなりますね。胸を張って言えるうまいめしです。大変良い。皆さん、生の鯨肉の方に関心が寄りがちかもしれませんが、安定してうまいのはむしろ加工食品です。食ってみましょう。ただ、これも僕は「不味い」ものを食った記憶が正直いってありますので、かなり品質差はあるんだと思います。ベーコンとかね…。でも、うまいのは明確にうまいのでチャレンジの価値おおいにあります。どんな食品にも品質のばらつきはありますしね。

 

鯨を食うのか

食います。が僕の答えです。これだけのポテンシャルがあるなら「食わない」という選択はちょっとありえません。正直、僕の鯨肉への評価は多くの部分が無知と経験不足によるものでした。ただ、食べ方は考えます。適当に買って適当に食うとヒドイことになる可能性はかなりある肉です。また、調理も何も考えずにやると結構辛いことになりがちかもしれません。それなりの難度はあります。

現在は鯨の赤肉に大変強い興味があります。高温の油で揚げ焼きにしてやって、岩塩ゴリっとやったやつを大きめにカットしてかぶりつきたい。合う香辛料も、多分胡椒だとちょっと強いと思うんですよね。ワサビも負けると思います、脂もないし。となると、辛子あたりがいいのではないか。ディルなども試してみる価値があるかもしれない、もしかしたらタイムやローズマリーの香りなんかも合うかもしれませんね。魚肉と獣肉の中間という印象なので、大変に面白いです。

あとは、いわゆるオバなどのゼラチン部位ですね。あの辺をうまく組み合わせることで、かなり味覚が広がる可能性があります。煮付けはまさにそれを利用した調理でしたし、まだまだやれることはあるはずです。というわけで、食っていきましょうという結論になります。

大変勉強になりました。本当にありがとうございました。

食っていきましょう。

 

追伸 「人が写りこむとちょっとまずいかもしれない」というあれで、鯨フェスの賑わいを表現しきれていませんが、端的にいうと「戦場」でした。そこかしこから「うめぇ」の声が上がり、料理を確保するのに根性が必要なレベルで人間ががっついておりました。僕もですけど、皆さん「うまい」と感じた瞬間に何がが切れてましたよね。無理もないです。僕もあんなうまいと思わなかった。

正直、刺身とか竜田揚げとか「まぁ、その調理ならね…」というようなものが出ることを想定していただけに衝撃で、危うく「うまい」以外の感想を置き忘れるところだった。入場規制もかかってた。

最高のイベントなので次回開催については知らないんですが、また呼んで欲しいです。また呼んでください。また呼んでください。

人間の絆とブラック部族の合理性について考える

告知。読んで欲しい。

new.akind.center

ニューアキンドセンター様で書かせていただきました。今回もヘヴィな内容となっておりますが、相変わらず己の汁を最後の一滴まで絞り出すような気持ちで書かせていただいております。是非、よろしくお願い致します。

最近の経営トレンドについて

www.nikkei.com

はい、いきなり皆さんがイヤな気分になりそうな記事のご紹介から始めましたが、最近の企業は「宴会」とか「社員旅行」とか「合宿」とかそういうあれを再びやり始めた、みたいな話です。実はこれ、僕の皮膚感覚ともかなり一致してまして、最近の経営者は結構こういうことをやりたがります。

中途で即戦力しか取らない、みたいな会社は別ですが新卒採用なんかしちゃうくらいまで育った会社は、せっかく大金を投じて獲得した新卒を「とにかく逃がしたくない」という気持ちがあります。しかし、現実的なところを言うと「初めて新卒を取った」みたいな会社に新卒社員を定着させる。それはとても厳しいゲームになってしまうわけで。世の中厳しいんですよね。

たとえば、これが「一人で月間200万利益を出すハイパープレイヤー」とかなら引止め策はわりと簡単なんですよ。要するに、「あんたはこれだけ稼いでいる、だからこれだけの褒章を与えよう」。ここさえ釣り合えば、少なくとも給与に対する不満は出ません。要するに銭勘定の問題になるわけです。とても簡単です。熟練の傭兵は金でしか動きません、逆に言えば見合う金さえ払えばキープ出来ます。

しかし、新卒さんはそういうわけにはいかない。いくらブラックな会社でも、入社半年や1年で会社と給与交渉が出来るところまで育つとは思っていません。しばらくはとにかく会社にいてもらって、頑張って仕事を覚えてもらうしかない。逆に言えば、仕事を覚えた頃に退職されでもしたら丸損になってしまうわけです。利益がそもそも出ていないわけだから、「~円までは払える」みたいな判断が出来ません。

その上、新卒さんに「お金をもうちょっとあげよう」という戦略はとりにくい。だって、繰り返しますけど利益出してないわけですから。いや、もちろん理屈としては出来なくはないんですよ。「新卒逃げられたら大損だから給料上げようぜ」は判断としてありえる。でも、現実に株主様や社内の他の発言権のある皆様にそれが通るか、と言えばまぁ通らないでしょうねという感じになります。

「いや、ウチの部署に設備投資させろや」とか「そのカネでもう一人雇えるだろ、こっちはキツキツなんだよ」とか「ふざけんな、功績ある人間に金を払うのが先だろうが、こっちは利益出してんだよ」などの人間と人間のあれが発生してしまうことは避けられない。僕は新卒を雇おうかな、と思ったタイミングでコケましたので新卒採用をやったことはないですが、「新卒の給料上げよう」という選択はかなりやりにくいだろうな、というのは肌感覚でわかります。社員全員の給与を上げることになりかねない。(しかも、新卒と同額の賃金上昇は古株社員に巨大な不満を発生させる可能性が高い)

 

「自由」はあまり効果がないようだ

さて、前述の通り新卒の離職率を減らすために「お金」という策が取りにくいことがわかりました。そこで、次に思い浮かぶのが福利厚生ですが、これも「お金」と同じことになります。新卒だけ豪華な寮に住ませるわけにはいかないですからね。もちろん、社員全員の福利厚生を底上げする余力のあるところは実行出来たでしょうが。まぁ、そんな利益に直結しない投資を決断できる会社は少なかったでしょう。

そういうわけで、ついこないだまでの経営トレンドは「なるべく従業員のワガママに応える」でした。休みを取りやすくして、就業時間の自由度を上げ、労働時間を減らす。飲み会などの業務外拘束もなるべく減らす。人間関係を疎にし、会社としての重圧を極力小さくする。そういう努力をしていた会社は―信じてもらえないかもしれませんがー結構あったんです。僕が起業した頃は、それを売りに従業員を集めようとする社長が結構いました。それに加えて横文字の格好いい社名にシャレオツなオフィスがあれば完璧、というわけです。経営者だって好きこのんで「ブラック企業」と呼ばれたいわけではありません。ホワイトにやって儲けが出て、求人に応募がどんどんやってくるならそれが一番なのです。

そういう会社は最近本当に見かけなくなりました。あれほど雨後の筍のように生えた「自由な社風」「ワークライフバランス」を売りにしたベンチャーたち、どこへ消えてしまったんでしょうね…。「なんで?これほど社員のことを考えているのに、どうして離職率が下がらないの?」と嘆いている経営者とも会いましたね…。

「結果的に離職率が上がり、会社の統制が崩れた」というお話も聞きました。まぁ、そりゃそうですよね。人間に自由度を与えたら自由にやります。もっと良い会社を探す余裕も生まれてしまうでしょう。悲しいことです。そういうわけで、経営者たちは気づきました。「自由」を与えるアプローチはどうも効果がないらしいぞ、と。

 

人間の絆、再び

サマセット・モームの「人間の絆」という名著があります。これは小説としてもとても面白いので是非読んでもらいたいのですが、何よりこのタイトルがとても素晴らしいのです。というのも、「人間の絆」は中野好夫による邦題で、原題は"of Human bondage"です。これは直訳すると「人間を隷属させるもの」となります。

"of Human Bondage"の元ネタとなったのはスピノザの「エチカ」なのですが、元ネタとなった部分を引用しましょう。

 人がその情念を支配し、制御しえない無力な状態を、私は縛られた状態と呼ぶ。なんとなれば、情念の支配下にある人間は、自らの主人でなく、いわば運命に支配されてその手中にあり、したがってしばしば彼は、目前に善を見ながら、しかも悪を追わざるをえなくなる。

 ちなみに、エチカにおける当該部のタイトルは中野好夫によれば「人間を奴隷にする絆について」とのこと。(これはおそらく、中野先生が英訳もしくは原語で読んで独自に訳したものかと思います)なんといいますか、経営あるいはマネジメントについて非常に示唆するもののあるお話ではないでしょうか。

「絆」という言葉、震災復興なんかでも多用されていましたのでなんとなくポジティブな意味合いを感じる人が多いと思いますが、グーグル先生に尋ねてみるとなかなかパンチのある語義が出てきます。 

 きずな
 きづな 【絆・紲】
  1. 馬・犬・たか等をつなぎとめる綱。転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。
     「恩愛の―」
 

わかってきましたね。「どうも自由にさせるのはよろしくないようだ」と学んだ経営者の皆さんは「人間の絆」を再び重視する流れに向かい始めたのです。 そういうわけで、僕の観測範囲でもモリモリ「合宿」「研修」「宴会」「社員旅行」などのイベントが「昭和」と書かれた墓の下から蘇るのが観測されています。

 

理念や価値観という企業価値

さて、多くの会社は「この会社に残るべき合理的な理由」を提供出来ません。もっと福利厚生の良い会社、もっと賃金の良い会社、もっと業務負担の小さい会社…実際幾らでもあると思います。これは求職サイドからすればピンと来ないかもしれませんが、求人サイドからすると実際この通りなんです。合理的に考えればそりゃ離職するでしょ、次に行くところがあるなら。そういうお話です。そして「次に行くところのない人」は正直、あんまり欲しくはないんですよね…。

そういうわけで、能力のある人間に「非合理的な判断」をしてもらうには、会社の価値観に染まって貰うしかない。「人間の絆」を形成するしかない、ということになります。だからこそ、ベンチャー企業などにおいては「企業理念」みたいなものがとても重要になるわけです。これは、いうなれば企業の「性格」です。「性格が合うからウチにいてくれる」という状況を目指すしかないのです。だって、他に他社に勝るものがないのだから。顔もイケてないしお金もないけど、性格が合うからやっていける。恋人探しだってそういうところはありますね。

しかし、ここで「じゃあマッチングをもっと厳しくやって、我が社の価値観にピッタリの社員を探そう」と考えていては経営者は務まりません。どんな人間も我が社の価値観に染め上げる、さもなければ余計なコストが発生する前に席を立っていただく。そう考えるのが経営者です。鋳型にガチっと嵌めて整形してやるぞ、弊社にピタっと合う形にな。そうなっていきます。

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これは僕の蔵書の一部ですが、特に本題には関係ありません。しかし、これらの書籍から得られた情報を総合すると、人間の絆を形成するための基本はとにかく長い時間をターゲットと可能な限り近い距離で過ごすことであることがわかります。他には、「外部との接触を極力絶つ」なども基本と言えるでしょう。

そういうわけで自由への挑戦は敗北に終わり、再び人間の絆の時代がやってきたわけです。素晴らしいですね、絆です。絆さえあれば何でも出来る。さて、ここまで考えると「ブラック企業」がいかに「労働者目線」に立ち、「合理的」な経営を行っているかご理解いただけたと思います。彼らだってバカではないのです。儲かるからやってるんです。労働者を深く理解した上でやっているのです。とても悲しいことに。

 

人間の絆を形成する力

その一方で、僕は発達障害がありますのでこういう問題があります。僕は「人間の絆」を形成するのがとても下手なのです。僕も幾つかの場所で「絶対にウチの価値観に染め上げてやる」と言わんばかりの絆アタックを受けましたが、全てにおいて「染まる」ことに失敗しました。絆を結べなかったのです。

「人間の絆」を結ぶ能力は高すぎれば「被洗脳性が高すぎる」「自分がない」ということになりますが、低すぎれば「空気が読めない」「連帯感がない」になります。これは単なるバランスの問題なのですね。みんながエイエイオー!って叫んでる時に、一人輪の外にいるのはあんまり得なことじゃないです。とりあえず叫んどけばいいんですが、心から叫べればもっと楽です。

そして、更に言うと「会社と人間の絆を結びたい」と思っている労働者も実際のところ結構存在するのです。これは、言い換えると「洗脳されたい」ということですが、集団の中で生きる以上集団の価値観に「上手に染まる」ことは生きる技術そのものと言えるでしょう。これが出来ないから僕は本当に苦労しているわけです。

「洗脳に強い」という人は結構います。僕もそのタイプだと思います。しかしこれは、「人間の絆を結ぶ」能力、ひいては集団の中でうまいことやっていく能力が極端に低いことを意味します。「人間の絆」を形成する能力は、おそらく言語的な物ではありません。限りなく人間の生得的な本能に近いものだと思います、恐らく後天的に身に着けることは不可能に近いでしょう。

この「人間の絆」を形成する力を他の能力で代替するのは結構大変です。このブログそのものが、「絆」を別の機序で擬似的に作り出す方法を模索し続けていると言っても過言ではありません。

1.組織の中で(往々にして極めて非言語的に)流通している「絆」がどのようなものであるか理解する

2.それを踏まえて具体的な行動を最適化する

3.トライアンドエラーを繰り返しながら実行する

という流れを踏むことになります。大変にバカらしいと思います、でも人間というのは絆で生きている生物なので、本当にこれを作り出せないと辛いことになるんですよ…。

 

やっていきましょう

さて、このブログを読んでくださる方は最近また増加しておりまして、どういう立場の方が読まれているかわかりません。しかし、それぞれがこういったあれこれを踏まえて上手に立ち回っていく必要はあります。

「上手に会社に隷属する」あるいは「上手に会社に隷属したかのように振舞う」スキルが、これからの労働者には求められるでしょう。これはどちらでもかまわないです、いざというときに「人間の絆」をぶっちぎれるなら、多少隷属しているくらい、多少洗脳されているくらいが過ごしやすいというのは事実だと思います。

また、会社経営者の皆様におかれましては、コンプライアンスを大事にしつつ、やはり人間の絆を形成していくしかないのではないかと思うばかりです。なんといいますか、世の中本当にしんどいものですね。「いやいや、他人の行動を支配するような価値観なんて我が社にはないよ、俺そんなん求めてないよ」という気持ちは大変にわかりますが、企業理念はやっぱり大事ですよ。本当にね…。

それでは皆様、土曜の午後を善くお過ごしください。

やっていきましょう。