発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

僕はジョブズではないということを理解するのに30年近くかかった話

さて、いよいよ新卒の皆さんもXデイが近づいて来ましたね

2月も半ばを過ぎました。このブログが始まってもう半月以上が過ぎたわけです。早いものですね。さて、新卒の皆さん、残った猶予時間も少なくなってきましたね。思い残すことはありませんか?十分にモラトリアムを満喫しましたか?泣いても笑ってもあと一ヶ月と少しです。悔いを残さないようにやりたいことをやってください。

僕も、3月に向けて新卒向けの「生存手引き書」シリーズを完結させる予定です。それに向けて、僕の失敗談を少し書き連ねて行こうと思います。

僕のキャリアは文句のつけようのないホワイト企業から始まりました。もちろんそれなりの激務感がゼロだったわけではありませんが、一般的な水準から見れば給与は高く、休みは多かったと思います。福利厚生はこれ以上ない水準で揃っており、教育環境は極めて高いレベルで完備され、正しく文句なしの職場でした。大学4年生の2月のあの浮かれた気分を僕は未だに覚えています。ついに俺はここまで登りつめたぞ、田舎者の発達障害者だってやれば出来るんだ。未来は希望に満ちていました。七転び八起きの人生だったけどやってやったぜ、そんな気持ちだったと思います。

それから約2年後、僕は職場から敗走することになります。もちろん、辞める前に起業資金やビジネスアイディアの段取りはつけていたし、新しい船出に燃えていたことも一つの事実ですが、それはそれとして僕は職場を辞めました。それは、僕の敗走人生の最も代表的なエピソードと言えると思います。

就職活動に成功した皆様、本当におめでとうございます。皆さんの未来が幸多いものになることを、僕は心から祈ります。皆様の本当の戦いはここから始まります。これは、新しい未来に船出する皆さんに贈る、敗残者からのエールです。

 

みんな能力が高いー退屈さと面白みのなさに強い

職場に入って一番先に思ったことは「こいつらみんな能力高え」ということでした。もちろん、能力の一番尖った部分で遅れを取る気はない、くらいの自負は僕にもありましたが、総合的な能力のバランスという面で僕は同期の中で圧倒的に劣っていたと思います。端的に言えば、能力のムラがあり過ぎました。

ホワイト企業の最も厄介な面はこれです。学歴はあって当たり前、その中で更に苛烈な選抜を潜り抜けてきた彼らは「出来て当たり前」なのです。もちろん、新卒にいきなり難度の高い仕事が回ってくることなどありません。しかし、「誰でも出来る仕事を効率よくこなす」という点で競い合った場合、能力ムラが大きく集中力にも難のある僕は圧倒的な遅れを取りました。

眠気。耐え難い眠気。僕があの職場にいた時の記憶の中で最も印象深いのがこれです。とにかく仕事に興味が持てず頭に入らない。そして、単調に続く事務作業の連続は、耐え難い眠気を僕に起こしました。また、僕は当時コンサータを入手することに成功しておらず、薬によるブーストをかけることも出来ませんでした。(後にこの症状はコンサータの投与で劇的な改善を見ることになるのですが、その時には全てが手遅れでした)

事務処理能力というのは残酷なジャンルです。素体スペックの差が隠しようもなく露呈します。何の面白みもなく、また仕事の全体像も見えないまま取り組む果てしない事務作業は、僕にとって最も適性のない仕事でした。しかし、ほぼ全ての同期は研修から配属初期に続くこのなんの面白みのない作業に難なく順応していきました。

当たり前です。僕のように中学校は半分以下の出席、高校は単位取得ギリギリのサボリ魔なんてバックボーンの人間はほとんどいなかったはずです。彼らは退屈さと面白みのなさを克服する訓練を果てしなく重ねてきた人間たちでした。その上、定型発達者でした。「こいつら本当に人間なのかよ」と思った記憶があります。しかし、彼らから見れば「人間ではない」のは僕の方だったでしょう。

僕は、人生のほとんどを「圧倒的に出遅れた後、後半で爆発的な加速をしてマクる」というパターンで乗り切って来ました。文句なしのスロースターターです。どこかで強烈な過集中がやってきて、全てをチャラにしてくれる。その繰り返しで生きてきました。中学も、高校も、入試も、大学も、就職活動も全てこのパターンでした。例えば、1年の期間で一定のタスクをクリアするのであれば、僕はその半分は浪費します。そして、誰もが「あいつはダメだ」と思った頃、強烈に加速してチギる。この繰り返しでした。そして、一番悪いことはそのパターンで新卒になるまではなんとかなってしまっていたことです。僕は「出遅れなんていつものこと。どうせ後半になればいつものアレがやってくる」という強い楽観を無意識のうちに持っていました。

しかし、仕事というのはそういうものではありません。特に、巨大なシステムの歯車として機能する事務職に於いては、そのようなやり方は一切通用しません。安定した出力を常時出し続けることこそが一番大事なのです。突出する必要はありません。安定感こそが最重要です。僕には危機感がまるで足りませんでした。そして、1年が経つ頃、僕はどこからどう見ても手遅れになっていました。

僕に仕事を教えようとする人間はおらず、また同情的に振舞う者もおらず、それでも職場は問題なく回っていました。一度掛け違えたボタンは時間の経過とともに加速度的に悪化し、二度と元に戻ることはありませんでした。全てが手遅れだったのです。

 

生意気だったー部族をナメていた

僕はこのブログで「部族に順応せよ」と繰り返し述べています。とにかく、部族の文化を尊重し、従順に振舞うこと。しかし、新卒の頃の僕の考え方はこれと全く逆のものでした。そんなものはくだらない、利益にもならない、順応や従属なんてのは情けない人間のやることだ。もちろん、ここまで明確に言語化されてはいませんでしたが、そういう風に考えていたと思います。だったらベンチャー行けって話ですよね。もしくは、営業の数字だけが正義の会社に飛び込めば良い。これは全くその通りで、何故そうしなかったのか未だに後悔があります。そういうタイプの会社の内定だって持っていたというのに。

僕は、10代から20代の始めまで「我を貫く」ことをモットーに人生を生きてきました。気に入らない教師や上司にはとことん逆らいましたし、人間関係も我を殺すくらいなら全て放棄してきました。その結果人間関係から放逐され孤独を味わうこともよくありましたが、その場合は「極力学校に行かない」「バイトはさっさと辞める」という最高の解決策がありました。授業なんか受けなくても自分でちょっと勉強すれば進級に困ることもありませんでした。(そもそも高校まで受験に一切関心を持っていなかったので、入った高校のレベルもとても低かった。高校選びは「家から近い」という理由だけでした)

最初に入った大学では見事に人間関係に殺されましたが、これも「退学して別の大学に通いなおす」という逃げが全てを解決してくれました。そして、入りなおした大学はそのような生き方こそ正しいという校風を持っており、僕のこの性向は大学卒業時に最も高まっていたと思います。(もちろん、僕は母校に感謝していますし、あの校風は素晴らしいと考えていますが、それはそれこれはこれ)

社会性を身につけるチャンスは、今思えばそれなりにはあったと思います。アルバイトだってかなりの数をしていました。しかし、アルバイトは所詮アルバイトだったんですよね。気に入らない先輩や上司がいれば喧嘩を吹っかけて辞めればいいだけのことでしたし、いくつも職場をホッピングすればそのうちに我を殺さなくていいところにあたります。無限にホッピング可能なアルバイトでは、僕は社会性を身につけるどころか反社会性を果てしなく強化しただけでした。

「退屈さと面白みのなさに耐える」ということもまるで身についていませんでした。当たり前ですよね。退屈で面白くなければすぐに逃げ出して次に行く人生だったんですから。礼儀や挨拶といった基本的なものもまるで出来ていませんでした。そんなものを求められたら即座に胸倉を掴みにかかるような人間でした。ここまで書いてきて、本当に恥ずかしいですね。しかし、言語化することにはそれなりの意味があるような気がします。

そういうわけで、僕は部族にグチャグチャに叩き潰されました。そのようにして、また僕は逃げ出したわけです。この頃の僕は、他人への共感性が限りなくゼロだったと思います。他人の立場なんてものを考えたことは一度もなかったかもしれない。「あの人にはあの人の苦労があるだろう」なんてことを考え始めたのは、自分自身で経営を行うようになって上司の立場になってからです。他人のことなんて考えたこともありませんでした。自分の正しさだけが世界の全てでした。

 

発達障害を甘く見ていたー自分が30歳になるなんて信じられなかった

僕は大学生の頃には自分が発達障害であることに気づいていました。通院もしていました。元来が躁鬱病を患っていたので、実のところを言えば大学時代からコンサータを飲むことは可能だったと思います。そして、そうしていればまた違う未来があったのかもしれません。しかし、これは本当に運が悪いことだと思うんですが、飲まなくても結構なんとかなってしまったんです。

もちろん、客観的に見れば高校は落第寸前の出席日数、人間関係はほぼ全てで破綻を繰り返しその度に別の場所に逃げる、定期的に躁鬱の波を繰り返し、薬物のオーバードーズと自殺未遂を繰り返す、明らかにダメです。でも、その破綻寸前の生活を僕はギリギリの線で乗り切ってしまいました。また、中途半端にテストの成績などは良かったため、問題が中々表面化しなかったのです。大学時代も薬物とアルコール、自殺未遂などは定期的にやらかしていましたが、「圧倒的に大学が楽しい」という事実が問題にフタをしてしまっていました。また、大学は圧倒的な規模があり人間関係を次から次へと乗り換えることが可能だったため、様々な問題を回避することが可能でした。

また、ある種そういった生き方に自分自身が酔っていた節も多大にあります。自己陶酔ですね。また、昔から僕は弁が立ったため、直面した大きな問題を口先だけで何とか乗り切ってしまえる最悪の能力がありました。そして、僅かはあるものの僕のそういった性向を承認してくれる人間の確保にも成功してしまっていました。彼らは僕が破滅的に振舞えば振舞うほど喜び、承認を与えてくれました。このようにして僕の反社会性は20代になっても衰えることなく保存されていったのだと思います。

僕は自分に30代があると思ったことがありませんでした。20代も後半にさしかかるまで、30代なんてのはおそらくない、自分は20代で死ぬ。そういう根拠のない確信を抱いて生きてきました。問題を解決する必要性すら感じていなかったのです。自分自身に大きな問題があることには気づいていました。いつかそれは避けようがなくやってくるだろう、とは思っていました。でも、その前に死ぬだろうとはもっと強く思っていました。根拠のない楽観と悲観を実に器用に使いこなして現実から逃避していたのだと思います。

ADHDという人生の問題と真正面から向き合ったのは、実はそれほど古い話ではありません。ほんの数年前の話です。定期的にきちんと医者に通い、服薬を欠かさず、様々な生活上の工夫を実践する、他者への共感的な振る舞いを試みる、定型発達者の考え方をエミュレートする。そのような習慣を身に着けたのは25歳を越えてからでした。もし、もっと早く僕が圧倒的に打ちのめされる機会に遭遇していれば、事態はここまで悪化しなかったのかもしれません。でも、気づいた時には全てが手遅れでした。逃げて逃げて逃げて、ついに逃げ切れなくなったときやっと人生の問題と向き合うことが出来たというのは、本当に最悪のことです。

 

生活習慣という概念を持っていなかった

僕は、今でもあまり褒められた生活習慣を持っているわけではありませんが、人生のある時期まで生活習慣を作るという概念を1ミリも持っていませんでした。眠りたい時に眠り、目が覚めているならいつまでも起き続けていました。躁鬱と不眠が事態を更に悪化させました。現在のような適切な睡眠薬の飲み方すら、20代の半ばになって身に着けたものです。僕にとって睡眠薬は人生のある時期まで、酒のツマミでした。

精神科に行くことと酒屋に行くことの区別がついたのは、二十歳を過ぎてからだと思います。現在、コンサータを飲むようになった僕は、適切な服薬の重要性を本当に強く認識しています。しかし、ある時期まで僕にとっての服薬とは人生の痛みを紛らわす酩酊物質を胃に放り込むことでしかありませんでした。

僕が新卒で会社に入った後の生活習慣は、平たく言って滅茶苦茶だったと思います。(まぁ、それ以前はもっと滅茶苦茶でしたが)帰宅するなり酒を煽り、明け方まで目を血走らせて過ごし、数時間の眠りについた後身体を引きずるように職場へ向かう。こんなコンディションで良い結果なんて出せるわけがないんです。自分の異常性に気づいたのは、深夜の3時にコンビニまで酒を買いに行って時でした。仕事の始まりまではあとほんの6時間です。8時には家を出なければいけないのに、酒を飲み始めてどうしようというんでしょうか。でも飲んでしまっていました。

部屋中に酒の空き缶が散らかり、電話口からの異常な様子に気づいた彼女が飛行機で駆けつけるまで僕はその生活を続けていました。彼女が激怒しながら処分した空き缶は、一番大きいゴミ袋に3袋という量だったのを今でも覚えています。机の上は空き缶の林のようになっていました。仕事を辞める、という判断は今考えると間違いではなかったかもしれません。その後の起業という判断も正解だったとは言い難いですが、あのままあの職場に残っても明るい未来はなかったでしょう。傷病手当や疾病休暇は取れたかもしれませんけどね。

 

僕はジョブズではないということにやっと気づいた

悲惨ですね。こうして言語化してみると、僕は実に模範的な死に方をしています。事態の表面化が遅れたため、最悪の時点で発達障害と向き合う羽目になったとも言えます。逆に言えば、この失敗を逆さにひっくり返すと多少は正しいやり方が出力されるのではないでしょうか。早期に自己の問題と正面から向き合い、対策を講じ、部族に対して、あるいは他者に対して共感的に従順に接する。あるいは自己の適性に見合った職場に就く。それだけのことが出来ればもっとマシな人生があったのかもしれません。

あなたがそうならないと本当に良いな、と思います。発達障害の発現形は実に人それぞれで、僕のライフハックが必ずしも通じるとは限りません。でも、少なくとも「僕はこのように失敗した」という知見をインターネットに撒き散らすことには僅かなりとも意義はあるのではないでしょうか。

今僕は、新しい職場にそれなりに適応できています。「なんでこんなことがほんの数年前の僕には出来なかったのだろう?」ととても不思議に思います。でも、出来なかったんです。もしかしたら、少し発達したのかもしれません。もしくは、経験が増えて対応力が向上したのかもしれません。でも、出来ることなら同じタイプの苦しみをここを読んでいる皆さんに味わって欲しくはないと思っています。

発達障害の特性を強く有したまま人生を駆け抜けていける人も稀にいます。それはそれでとても素晴らしいことです。しかし、僕を失敗に導いたのは、正しくそのような発達障害者達の神話でした。自分は突出した能力を持っていて、それ一つで社会を駆け抜けていけるのか、それとも「出来損ない」として社会に順応していく努力をしないと生きていけないのか。僕は今、明確に後者が自分であると認識して生きています。

僕はジョブズではない。エジソンでもない。社会の中で稼いで生きていくためには、己を社会の中に適応できる形に変化させていくしかない。言うなれば、呑み込むべき事実はたったそれだけなんです。それさえ出来れば、後は具体的にどうするかという戦略を組み立て、トライアンドエラーを繰り返すだけのことです。それだけのことを理解してこの文章を書けるようになるまでに、取り返しのつかない時間が浪費されました。なにをどう悔いても、時間は戻ってきません。20代は終わってしまいました。

とはいえ、僕はまだ人生を諦める気はありません。神話的な発達障害者になることを諦めただけです。地道に愚直に積み上げることを今更ながら目指すだけです。そして、あなたのお役にほんの少しでも立てればいいなぁ、と思います。(まぁ、もっともそれは主目的ではなく『書籍化』が大目標ですが。もっと言うなら「金と名誉」が目的そのものですが。それでも『善意だけでやってます』なんて人間よりよっぽどマシだと思いませんか?)

残念ながらまだまだ人生は続く。

やっていきましょう。