発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

発達障害は個性なのか、それとも単なる障害なのか

多動力

堀江さんが「多動力」という本を出すみたいですね。ガンガン動く多動最高、のような内容であるようで、流石ホリエモンだなぁと思いながら眺めていたんですが、ホリエモンの下位互換のような人生を送っている僕としてもなんというか思うところがあります。というか、堀江さんやっぱり多動傾向あったんですね。まぁ、そうだろうなーという納得感はありますけど。

僕は堀江さんがわりと好きです。性格から体型から衝動的な物言い、多動的な動きまで共感がありますし、流石上位バージョンは違うと思います。しかし、僕自身が多動や衝動性の強さという発達障害のあれで得をしてきたかなぁと考えてみると、大変微妙なところで。

 目次が出てますが、わかるっちゃわかる。という感じですね。そういうところは確かにあるかもしれない。多動傾向の全く無い人が参考にするのはすごく良いと思います。こういう考え方を取り込むことは実際役に立つ場合も多いでしょう。散発的に多くの物事に手をつけ、衝動的に何かを始める。そのうち一つが当たればOK、そういう戦略は十分にありえる。

その一方で、多動ガチ勢の多動がこのように役立てられるかというと、それはとても難しいでしょう。というのも、堀江さんの多動はコントローラブルな多動で、ガチ勢の多動はコントロールが効かないからです。堀江さんは東京大学に入ってますが、東京大学に入れるほどの中長期的集中力と多動的な行動力が両立すればそれは間違いなく強い。堀江さんの異能は、多動性そのものではなく、多動性と集中性という相反する能力が同居していることだと思います。でも、それが出来る人はそんなにいないんですね。多動力が大事という話には一理がありますが、それは制御された多動性のお話で発達障害における多動性という概念とは別物でしょうね。

この本はおそらく、多動傾向の無い人が読んで人生に多動傾向を取り入れる、そのような場合に一番役に立つ本だと思います。しかし、最初から多動傾向を強く持った我々にとっての自己肯定の参考にはあまりならないでしょう。(もちろん、発達障害者向けに書かれた本ではないので当たり前なんですが)

 

発達障害特性は役に立つのか?

神話的な発達障害者、あるいは発達障害者であったとされる人は大体、「発達障害特性を生かして成功した」という逸話が形作られています。そういうわけで、「発達障害というのは一つの個性である」とか「異能の源泉である」みたいな言い回しがされるわけです。このような言説は非常に悩ましい存在です。発達障害が肯定的に解釈されるのは耳に心地が良いですし、時には希望になりえます。その一方で、では実際に多くの発達障害者にとってその特性が役立てられるものかというと、それもまたとても難しい。

僕は成功者とは到底いえませんが、発達障害者としての特性、主に多動性と衝動性が人生の役に立っているかと尋ねられれば、「役に立ったこともあった。現在の自分の肯定的に評価出来る部分に発達障害特性が全く寄与していないと言えば嘘になる」と答えます。僕は衝動的に色んなことをやって、その度に大失敗したりあるいはささやかな成功を得たりして生きてきましたが、この時に蓄えた経験が今文章として商品になっているわけですし。確かに、全く役に立ってないと言ったら嘘なんですよね。

ツイッターは衝動性をぶちまけ、多動的な思考を放出するには大変適したメディアで、僕の文章が現在これだけの数の人に読んでいただいているのはツイッターというメディアのおかげという点が大きいのですが、ツイッターでこれだけの読者に恵まれたのは間違いなく多動特性が寄与しているとは思います。

その一方で、多動性と衝動性によって失われたものについて考えると吐き気がします。もう少し集中力が長く続く人間だったら、もう少し長期間同じことに没頭できる能力があったら、もう少し考えて動くことが出来たら、興味のないことにでもパフォーマンスを出すことさえ出来れば、そういう忸怩たる思いの上に、「発達障害特性が全く役に立たなかったとは言えない」という表現があります。

本音を言うと、「発達障害はただの障害、役に立つことなんか無い」と言い切りたいんですよ。でも、結局僕はこの発達障害を抱えた自分で人生をやってくるしかなかったので、それを言い切っても嘘にはなります。たとえばこういうことです、穴を掘る時はスコップが欲しい、欲を言えばパワーショベルがあれば尚良い。でも、僕に与えられた道具はツルハシだった。そういう感じです。そりゃあ、固い地盤に遭遇してそこをカチ割る時には役に立ったこともあるけど、掘るには全体を通して不便だったよ。そういう感じですね。

 

人生に勝てば発達障害は障害ではなくなる、発達障害者の残酷な分断

発達障害という問題の一番のあれは、ここだと思います。人生に成功し、苦難から逃れることさえ出来れば、発達障害も含めた全てを肯定されることが出来ます。発達障害を治す一番手っ取り早い方法は大金を持つことです。3億あれば、よほど強烈な発達障害特性を持っていない限り発達障害者としての問題を気にすることなく生きていくことが出来るでしょう。また、それだけ稼ぐことが出来たならば自己肯定感も相当強くもてるので、「発達障害が役に立った、発達障害は個性」という自己認識を持つことも可能でしょう。実際それは事実でもあるでしょうし(もちろん、ある側面から見た一つの事実、という留保はつきますが)。

では、発達障害特性を生かして人生に勝つことは可能か、という設問にすると「たまにそういう人もいる」としか答えられないんですね。これは悲しいジレンマです。発達障害の最良の処方箋は人生に勝利し資産や社会的地位を築くことですが、それを達成するための最大の障壁は発達障害そのものです。

発達障害の定義に関しては医学的な知見とその専門性を十二分に尊重します、という前提を置いた上ですが、社会適応が出来ないという点を重視すべきだと僕は考えております。発達障害と十分に定義し得る特性を有していたとしても、社会適応が十分になされていて本人が問題を感じていないなら、それは「そういう人」ですからね。

発達障害者だって成功している奴はいるだろう、個性なんだろう、じゃあそれを生かして成功しろよ」という言葉が投げつけられることは結構あります。これは多くの発達障害者が「あれがキツい」と言いますね。でも、100%間違っているわけでもないから反論もしにくい。「おまえは発達障害の問題と無関係に無能なんだよ、発達障害なんてただの言い訳だ」で話を閉じられて、実家に火をつけてやろうと思ったことは僕にもあります。

 その一方で、成功した発達障害者が「発達障害は個性であり、自らの成功の源泉である」と語ることも否定は出来ないんですよ。実際そうなんでしょうし。このようにして発達障害者は分断されます。発達障害特性をどのように捉えているかですら、発達障害者の間でも一枚板ではないわけですよ。人生が上手く行ってる人にとっては個性でも、人生が苦難の連続である人にとっては忌むべき障壁です。世の中には実に様々な環境がありますので、もし仮に全く同様の能力と発達障害特性を持った人間が二人いたとしても、その二人の発達障害への認知が全くの別物になることだってありえるでしょう。

発達障害は、社会のありようや適応と分断して純粋に器質的な障害だと考えることがとても難しい概念だということでしょうね。

 

発達障害特性を活かす

発達障害当事者、特に人生に苦難を抱えている人ほどこの言い回しは不愉快だろうと思います。活きることなんかねえよ、単なる障害だよ。そう吐き捨てたくなることも多いと思います。この話題は突き詰めると、発達障害者(有能)と発達障害者(無能)みたいな対立さえ生み出します。最悪ですね。

発達障害者は起業しろ、組織に囚われなければ上手くいく」みたいな言説がありまして、僕はまぁ実際起業してみたわけなんですが。確かに、成功失敗を度外視してみれば(発達障害者がやろうが定型発達者がやろうが起業の成功率なんてクソ低いですし)サラリーマン時代よりはずっと良かったです。でも、サラリーマンより遥かに勝率計算のしにくい選択ですしリスクも大きい、住宅ローンも組めなくなります。

環境をドラスティックに変化させて発達障害を障害ではなくしちまえ、というのは発想としてはもちろんありえますし、実際それで上手くいくケースもあるとは思いますが、誰でも出来る選択ではありません。その選択をした結果発達障害特性による問題は確かに減少した、でもそれとは全く無関係に大失敗だった。そういうこともあります。

結論としてはこうです、発達障害特性を活かす努力をするのも、あるいは純粋な欠点として認識してその欠点を最小化する努力のもどちらもありです。どちらか片方ではなく、両方あり得るものとして考えるべきでしょう。ただ、安易に「発達障害を個性として活かせ」と僕は言いません。活かせることもあれば全く活かせないことももちろんあります。環境次第では克服以外の努力の方向性が皆無ということもあり得るでしょう。

ただ、環境を工夫するなどして発達障害特性を問題ではなくしてしまおうと考えたとしても、あるいは発達障害特性を単なる欠点と認識して克服しようと努めるにせよ、まずやることは一緒です。自分の特性を把握する、自己モニタリングを徹底する、その上でそれを他者に理解可能な形で言語化する。これに尽きます。

問題を認識しないまま対策を打つのは不可能ですし、なにはともあれそれをやるしかない。そして、自己をモニタリングして特性を把握するということは、即ち社会やあなたの所属組織、あるいは与えられた環境があなたに何を求めていているのかを把握するということでもあります。自己を把握することは社会を把握することでもあるわけです。

発達障害特性を活かす、あるいは克服する。どちらの方針でも構わないし、両立だってもちろんします。この部分は大変センシティブで、インターネットを眺めていてもしょっちゅう発達障害当事者同士の論争が起きているところですが、どっちにせよやることは一緒です。選べる選択肢を採用しましょう。人生はいつだってそれしかありません。

そういうわけで、発達障害が個性なのか障害なのかという話は「社会との適応次第」という結論になります。発達障害というのは、脳の器質的な障害であると同時に、極めて社会的な概念である。そういうことですね。でも、発達障害当事者がやるべきことはいつだって同じです。自己モニタリングと障害特性の言語化。ここからしか始まりません。発達障害は一人ひとり症状に差異があります。スペクトラムと呼ばれる所以です。まずは、とりあえずそれを把握してみましょう。これが大変難しく、現実的には一生続けることになります。でも、それをやるしかありません。その上で、あなたの置かれた環境とあなたの特性を踏まえた悔いのない決断を祈ります。

やっていきましょう、いつだってやっていくしかない。