発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

【告知あり】中長期的に合理的な行動が一切できない人の話

まずいつも通り告知です

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ニューアキンドセンター様で書かせていただきました。

これはね、こうあえて感情を出さないように書いたんですが、心が痛い話です。まぁ、お金というものは、よくわからない理由で消滅するものなんです。人間が集まって、みんなでお金使う以上、これはもうある程度しょうがない。もちろん、しょうがないで済む話でもないんですけれど、「起きる」と思っておいた方が本当に気が楽です。是非皆さんもご一読いただいて、人間があつまる場所におけるお金について、色々考えてみてほしいと思います。

クズ氏の話をします

さて、本日は「合理的に損得を考えて、中長期的に行動できる人は選ばれしエリートだ」というお話をします。皆さんは選ばれしエリートですか?

昔こんなことがありました。あるところに、たくさんの人から3万円、5万円とお金を借りまくる人、たまにいますよね。そういう人がいました。もちろん僕もたいした額ではないですが、お金を貸していて、返せと言ってものらりくらいと逃げられるので腹が立ってきました。

そんなわけで、僕は彼(彼にクズ氏としましょう)にお金を貸してる皆さん10人ほどを集めて、みんなでクズ氏にお金を返せと説教をする会を開催しました。これだけの人数に囲まれると、クズ氏も最早何も言えません。「今はぜんぜんお金がないけれど、少しずつ返していく」そういう話になりました。

そこで、僕は皆さんの貸した金額を一本化して借用書を作り、クズ君の収入を勘案しながら返済スケジュールを組みました。なにせ、金額は一本化してもたいしたことはありません。いいところ50万ところでした。月々3万、17回払い。そういう形で話は落ち着き、毎月クズ君が僕の口座にお金を振り込む、振り込まれたお金は便宜的に僕が預かり、一定の額になったところで債権者の皆さんに配分することになりました。

もちろん、それだけで済ますわけにはいかないので、支出と収入の根本的なバランスが狂っている可能性も検討してみました。家賃2万5千円、光熱水道費1万円、携帯電話4万円・・・、おうケータイのプラン替えるぞアホか、程度の話はありましたが、収入も手取りで20万以上あり、そうそう生活が崩れるというレベルでもありません。やはり、生活を圧縮しているのはギャンブルであろう、あるいは「お酒を飲んでしまう」が女の子のいるお店なのかもれません。しかしとにかく、基本的な収支バランスに大きな問題はなさそうです。典型的な浪費による借金のようです。

さて、この会はとても感動的なエピソードになりました。最初みんなが責め立てるうちに、クズ氏は「仕事がつらくて、ついお酒を飲んでしまう」とか「ストレス解消がパチンコくらいしかない」みたいなクズエピソードを語り始めました。

しかし、当時の僕らは二十歳そこそこ。田舎の粗暴なボーイズアンドガールズです。わかるといえばわかるのです。みんな賭け事もお酒も大好きです。この程度の話は「じゃあパチンコやめような」「酒は俺らと飲み行こうぜ、返済終わるまで奢ってやるよ」などの優しい言葉が出てきます。クズ氏はさっきまでガンガン怒られていたところから一点やさしくされ、感動の涙を流しました。「人生やりなおす」とか「頑張ってちゃんと返す」とか「みんな本当にありがとう、みんながこうやって集まってくれて本当に感謝してる」などの言葉が乱舞しました。

そこで最後に「他の借金はないのか」という話が出ました。そこで、金持ちB氏が言います。「利子がつく借金が他にあるなら、これとは別に俺が一本化してやるぞ、無利子で構わん」B氏は儲かっている家業を継いだ純正ボンボンで、「困った時のB金融」と呼ばれていました。(ただし、基本的には粗暴ボーイなので取立ても厳しい)

「もう借金はありません!信じてください!」清らかな涙を流しながらクズ氏は言いました。そして、みんな「それはよかった」と思いました。そして我々は肩を抱き合って、「頑張ろうぜ」みたいな話をしながらお酒を飲みに行きました。クズ氏はとても嬉しそうでした。「本当によかった、みんながいてくれなかったら人生どうなったかわからない。ありがとう」みたいな言葉で、みんなのテンションも急上昇。青春映画のワンシーンみたいな友情が確認されました。

 泣いて謝罪して許してもらう、あるいは泣いて謝罪する人間に許しを与える。これはどちらもとても気持ちのいいことです。僕たちはみんなでとても気持ちよくなっていたのでしょう。逆集団ヒステリーですね、集団ラブアンドピースです。人生にこういうことがたまにあると気分がよくなりますね。

クズ氏、再び金を借りようとする

 一週間とたたないうちに、「クズ氏から金を無心されたけど、あれ大丈夫なの?」とう情報が僕に入ってきました。僕とB氏は基本的にクズ氏を信用していなかったので、網を張っていたのです。一瞬で引っかかりました。数人が車に乗り込み、クズ氏の自宅を襲撃しました。クズ氏は不在でしたが、郵便受けからはさまざまな郵便物が溢れ出していました。

B氏はその一つをつまみ「サラ金だこれ」と言いました。僕も適当な一枚を見てみましたが、確かに消費者金融の請求書で、しかも「払ってね」ではなく「払わないとブチ殺すぞオラ」に近いニュアンスまで育ったものでした。あいつ「他に借金はない」と言ってたよな、と数人で顔を見合わせましたが確かに請求書が届いているのだから疑いはありません。あの野郎、サラ金摘んでやがった。

「近くのパチ屋見に行ってみるか、まさかいないと思うけど」そういうわけで僕らは近隣のパチンコ屋を覗きにいってみました。想像されるとおりです。クズ氏はちゃんとそこにいました。エヴァンゲリオン打ってました。

「おい、おまえパチンコ止めるつってたよな」

「家、郵便物はみ出してたからちょっと見せてもらったけど、おまえサラ金つまんでるな?」

クズ氏はだんまりモードに突入しました。埒が開かないと判断した僕らは最終手段に出ました。クズ氏を彼の実家に連れていき、あわよくば親御さんから返済してもらう。あるいは、親御さんが返済を拒否したとしても、「おたくの息子はやばいことになっている。友人として最低限のことはしたからな」という形で彼を引き渡そうと思ったのです。クズ氏は「実家は勘弁してくれ」「親に借金をバレたくない」「頼む、ちゃんと返すから」などといい、隙を見ては車からの逃走を試みましたが、我々も粗暴ボーイズです。人間を逃がさないのは得意です。

アパート引き払って実家に帰るのがいいんじゃないの、みたいな気持ちもありました。クズ氏の親御さんは裕福ではありませんが、話は通じる人でしたので。僕とクズ氏は幼少期からの付き合いで、僕はクズ氏の実家に遊びに行ったことが何度もあります。

クズ氏の実家では、激怒した債権者が待っていました。クズ氏、実家のキャッシュカードを盗み出して、親御さんの預金を引っこ抜くという大技を繰り出していたのですね。「警察に被害届を出したところだった、捕まえてくれて良かった」

しかも、クズ氏お金を盗まれた両親に職場にカチ込まれ、もともと上手くいっていなかった仕事に通えなくなり、辞職していたそうなんですね。収入がゼロになっていました。しかも、職探しさえしていなかった。今月の家賃すら手元にないわけです。この辺、タイムスケジュールとしては感動の会が開かれた頃に同時進行で起きていたそうです。日雇いすらほぼやらず、ただ時間が過ぎるのをボーっと眺めていたとしか思えません。パチンコはしてましたね。

ここで、クズ氏再びB氏に泣きつきます。こないだの借金の一本化をお願いできないか、と。B氏は冷酷に言い放ちました。「親御さんの連帯保証がつくならな、おまえの信用はゼロだ」と。親御さんは言いました「盗人の連帯保証など出来るか」と。「借金玉の連帯保証でもいいぞ」とB氏は水を向けて来ましたが、僕もとてもいい笑顔で「絶対に嫌だね」と言いました。

クズ氏の問題はどこにあったのか

そういうわけで、クズ氏は債権を額面の10%で買い取ってくれる親切な先輩に連れていかれました。この辺の詳細はまぁいいですよね。債権を買ってくれる人(この方は闇金一郎君のお話にもスターシステムで出演していますのでそちらも併せてどうぞ)が黒塗りのオシャレな車でやってきて、お金を置いてクズ氏を連れていきました。もちろん借用書も持っていきました。親御さんの盗まれたお金も借用書にして借りているという体になりました。クズ氏、逮捕されなくてよかった。今も元気でやってるといいですね。

さて、このエピソードの本質はどこにあったのでしょうか。僕は今でもそれをよく考えます。クズ氏、助かる方法いっぱいありましたよね。手順が間違っていなければ、クズ氏は助かっているはずです。特に、B氏から提案された借金の一本化を拒んだのが不可解です。正直にサラ金から借り入れがあることを伝えて、一本化してもらえばよかったはずです。ちなみに本文では省略しましたが、サラ金からの借り入れも150万程度のお話で、人生が破綻するような額では到底ありません。

クズ氏は決して嫌われ者ではありませんでした。むしろ、子供の頃からずっと人気者といえる存在だったと思います。「あいつ呼ぼうぜ」となるやつでしたし、一文なしで飲みに来ても誰かが奢ってくれるタイプの男でした。僕も好感を持っていました。だから多方面からお金を借りることもできたのでしょう。

そして、あの感動の会で彼が流していた涙はなんだったんでしょう。

僕が思うに、あの涙は本物なんだと思います。みんなに許されて嬉しい、励まされて嬉しい。そしてサラ金の借金はバレたくない。その後どうなるかなんて全く考えられていないのです。人間は、短期的な欲望と長期的な欲望が矛盾することがよくあります。卑近な例で言えば、ダイエットしたいけどケーキも食べたい、みたいなやつですね。

これを適切に調整して、痩せるためにはケーキを食べない。そういう選択が出来る人間と、一切出来ない人間が存在することが、僕は最近わかってきました。たとえば、生活保護を受給しても、受給したお金の中から家賃を払えない人間なんてザラにいます。彼らは短期的欲望の奴隷と言えます。目の前にある快楽に飛びつき、その結果については思い至りません。実際、このクズ氏に「なんでサラ金のことあの場で言わなかったの?」と言ったら「いいにくかった」としか言えませんでした。「サラ金返しながら僕らの分の返済するの土台不可能だってことはわかってたよね?」と聞いたら、「なんとかなると思った」です。

普通の人は、長期的にドツボが発生する可能性を感じたら、短期的な欲望を振り切ることが出来ます。端的に言うと、財布に10万円あって、月末に12万円の払いがあったら「やばい」と感じますよね、2万円どっかから用立てなければならんと。しかし、このタイプの人間は「財布に10万円ある」がとりあえず世界のすべてなのです。中期、あるいは長期の視座が一切ない。短期的欲望に向かって前進するのです。短期と長期が一つながりに統合されていないのです。

これは、債権回収の一番のコツは「収入がある日のうちに回収する」であることとも一致します。給料日に入ったお金を必要に応じて割り振り出来る、という能力がある人間はある意味でエリートなのです。何故出来ないのかと叱り付けてもほとんど意味がありません。出来ないのです。それはもう、ただ純粋に出来ないのです

他人事とも言い切れない

さて、発達障害就労日記にこれを書いた理由は何かというとシンプルです。人生が追い詰められたり、つらいことが続いたりすると我々自身もこのクズ氏のような思考形態に陥ることがあります。皆さんも思い出してみてください、今それをそのようなしたら後から大変面倒なことになる、あるいは信用を失う。そういうことをしてしまったこと、ありませんか。もし、この「短期的な欲望に負けて長期的に失敗する」がゼロであれば、ダイエットに失敗する人間は存在しないはずです。

クズ氏と我々の差はつまるところ程度の問題でしかありません。油断は出来ない、僕自身本当にそう思っています。実際、ここまで大事にはならなかったけれど、本質としてクズ氏と同じようなムーヴをしてしまった経験は結構多くの人にあるのではないでしょうか。

ADHDは先延ばし癖が非常に強いです。また、衝動性も強いです。これは結果として「テンプレクズ」になる可能性が高いということを意味します。衝動的に浪費して、何もかもを先延ばししていれば破滅はあっという間に目の前にやってきます。「他人のお金に手を出す」人も多くの場合がこれなのではないかと思います。ADHDの人間が信用に足らない、ということはありません。有意に犯罪率が高い、のようなデータは存在しなかったはずです。しかし、自戒として我々は「クズ」になりやすと認識しておいて損はありません。

自分の行動における短期と長期がどれくらい噛み合っているか。自分は長期的な視座を持って行動出来ているか。もちろん、たまには深いことを考えずパーっと浪費したり明日を忘れて遊ぶのもいいことでしょう。それでも、その辺については常に恐怖感を感じておいて損はない。アキンドセンター様の文章を書きながらそんなことを思っていました。最終的に人生は長く続きます。長い人生を適切な長さの視座を持って、やっていきましょう。

 

 

雑談の技術について③ 上級編 傾聴と発話について

本エントリの前に告知です

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ワンキャリア様でまた文章を書かせていただきました。是非ご一読ください。ちょっとした思い出語りですが、仕事のモチベーションの持ち方、欲望の肯定みたいなお話をしました。働いていくためのモチベーションコントロール、重要なところだと思います。よろしくお願いします。

そういうわけで、最後の雑談エントリです

久々に3回の続き物になった雑談エントリで、本日は最後のエントリとなります。このエントリは、コミュニケーションを深めるための雑談の技術論、みたいな感じになると思います。1回目のエントリでは、雑談の基本中の基本であるキャッチーボールの形式を、2回目のエントリでは「形式的にとりあえずYESで受ける、否定を回避する」という方法論を中心に受け答えの技術論を展開したわけですが、正直ここまでこなせれば雑談において「こいつはコミュニケーション不可能な奴だ」と判断されることは無いと思います。

syakkin-dama.hatenablog.com

syakkin-dama.hatenablog.com

とりあえずこちら二つをご参照ください、というところなんですが、しかしこの二つのエントリではあくまで「雑談」は「コミュニケーションのキャッチボール」に過ぎず、「意思疎通が可能な人間であることを相互に承認し合う」意味しか持ちません。雑談にはもちろんそこから先があります。

相互承認の儀式が済んだ後は、いよいよ「会話」が始まるわけですが、実際ここから先はある種のリスクを孕んで来ます。というのも、ただの形式的なキャッチボールと違って、内実のある会話はお互いの考え方や価値観を晒しあう必要が出て来ます。そして、人間というのは残念なことに、誰しもがわかりあえるというものではありません。形式的なキャッチボールをするだけの間柄であった方が良かった、そういうことはままあります。内容のある、己を晒した誠実な発話、それは即ちリスクの高さです。

「全ての人間と実直に語り合おう」なんてのは、不可能です。無理やりやったとしても、不愉快な出来事や諍いが増えるだけでしょう。キャッチボールや事前情報などから、この相手はリスクを負って「会話」をする価値があるか、あるいは「会話」をした結果致命的な事態が起こる可能性が高いのではないか、そういうことを吟味することはとても大事です。人間同士が深い関係になるには、中身のある会話をするしかありません。形式的キャッチボールでは、関係性は深まっていかない。

このエントリでは「関係を深める」「リスクのある」会話について話そうと思います。しかし、「関係を深める必要がそもそもあるのか、あるいは可能なのか」について常に吟味することを忘れないでください。人間の会話の大半は形式的キャッチボールですし、それはそれで十分でありえるのです。他者に向かって踏み込むことのリスクは、心得ましょう。

 

質問、相手は何を語りたいか

雑談においては、相手に「楽しく喋らせる」ことが好感を持たれ、コミュニケーションを円滑化する上で最も簡単かつ効果の高い方法だと思います。「楽しく聞かせる」も有力な選択肢ではありますが、相手の興味も関心もわからない状態で相手が楽しく聞ける話を選択するのは簡単なことではありません。そもそも「楽しく聞かせられる話」をするのは特殊技能です。レベル上げると単体でメシ食える技能です。

では、相手に「楽しく話させる」にはどうしたらいいか。これはもうシンプルで、相手の好む会話の内容に向かって誘導するしかありません。形式的キャッチボールから「会話」への入り口は、相手への「質問」です。「お休みの日って何されてるんですか?」でもいいですし、「ゲームとかします?」でもいいです。相手の個人情報を差し障りのない範囲で尋ねながら、相手が話したがっている内容を探っていくしかありません。

通常、「雑談」の得意な人同士であれば、この段階で相互に「この話題を話そう」という話題のチューニングが行われるでしょう。これは理想的な形です、お互いがお互いの興味のある話を探りあい、楽しく会話できる場所を見つける。でも、世の中このチューニングが一切出来ない、あるいはやる気がそもそもない人というのはたくさんいます。そもそも、雑談の始まりに「双方から話題を楽しく話せるところへチューニングし合う」という概念を持っていない人、多分ここを読んでいる人にもいますよね。

このチューニングの精度が「キャッチボール」から「会話」に持っていくためには一番重要です。形式的キャッチボールから徐々に情報収集に切り替え、相手の喋りたいことを探る。これが上手い人は、雑談の達人と呼べるでしょう。しかし、これはリスクがあります。個人情報を尋ねていっても、自分がその返答に合わせて会話することが出来なかったりもしますし、相手が情報を出してくれなかったりもします。「雑談しようと思ったらいつも質問攻めになってしまう」という悩みは誰しもありますよね。

この場合は、相手が質問に答えて提示してきた話題へ自分が合わせられていない、あるいは相手が合わせられる形で回答を出してきていない、このどちらかが起きているはずです。しかし、これの回答は簡単です。「力技で合わせればいい」。それだけです。というのも、雑談が苦手な人は大抵、相手が出してきた話題の知識が自分に一切なかった場合尻込みをしてしまいます。そして「次の質問」になってしまうわけです。でも、本当はこれ尻込みをする必要なんて一切ないんですよ。知らないなら興味があるから教えてくれ、という方向に話題を持っていけばいいだけなんです。自分が知っていることを他人に教えるのが楽しくない人はそんなにいません。自分の好む話題であれば尚更です。

バーテンダー、美容師、ああいった会話を日常とする人たちの話題の広げ方は大抵これです。毎日たくさんの人と話す中で、「自分が話して聞かせる」という方法論を選ぶのはほとんど不可能です。(たまに超大御所みたいな人ならそういうタイプもいるけど)お客様の話を興味を持って傾聴する、少なくともそのように見えるよう振舞う。これは雑談の極意です。雑談の極意は非常にシンプルに言えば、他者に強い関心を持つことです。他人の持っている情報に対して常にMAXの関心を持っている人であれば(そんな人は存在しないでしょうが)雑談に困ることはまず無いでしょう。逆に言えば、「他人に興味がない」なら雑談が苦手で当たり前ということです。「傾聴」から最も遠い態度ですからね。

もちろん、相手も自分もひとつの話題について知識を持っており、情報交換や意見交換で雑談が成立する。これはひとつの理想像です。でも、これがおきる可能性はそう高くありません。自分の知らない話を興味を持って傾聴する、これは必ず必要になります。

 

はい、じゃあ具体的にどうするか

そんなこと言われたって、他人に興味なんかないけど雑談を上手いことやりたいんだよ。そのお気持ちは大変わかります。バーテンダーも美容師も大体そう思っているでしょう。心配ありません、他者への関心や敬意なんてものを演出するのはそれほど難しいことではないからです。むしろ、これが「難しい」と思っているのが失敗の要因です。多少ヘタクソでも、多少見え見えでも、「あなたの話を聞きたい」「あなたの話は面白い」という態度を示されて嬉しくない人なんてほとんどいないんですよ。あなただってそうでしょう。僕だってそうです。少なくとも、その姿勢を見せてくる相手をシャットアウトするほど性根のひん曲がった人はそんなにいない。あなたがとんでもなく性根がひん曲がった人である可能性はありますが、大丈夫です。あなたは少数派です。

僕が雑談がとてつもなく苦手だったとき、そこには「演じる」ことへ、あるいは「茶番」への強烈な拒否反応がありました。「そんなやり方は不誠実だ」という思いもあったと思います。面白くない話を面白いと言う必要は無い、と。しかしですね、世の中初手から面白い話が出来る人なんてそうそういません。まずは相手が傾聴と好意の態度を見せ、緊張が解除され、自分の情報を出すことにためらいがなくなったとき、やっと人からは面白い話が出て来ます。あなただってそうでしょう、初対面の相手にいきなりオモシロ話ブチ込める人なんて、なんかのプロくらいです。

つまるところ、「他人の話が面白くない」原因は、多くの場合受け手にあるのです。相手が面白い話を出来る土壌を作れていない。少なくとも「面白い話をさせる」という作業を相手に委ねるのだから、それを受けるこちらは相手が喋りやすい環境を整えてあげるべきですよね。それで丁度フィフティーフィフティーだと思います。致命的に話が面白くない人というのもたまにはいますが、それでも他人は自分とは違う人生を生きており、違う情報を持っています。そこから面白味を見つけ出すのは(たまに例外はあるけれど)それほど難しい作業では、本質的にはないんです。

「えー、ぜんぜん知らないです、教えてくださいよォ!」って、皆さん言えませんよね。僕も言えませんでした。そんな白々しいこと言えるかよ、って思ってました。でも、言えるし言った方がいいんです。多少白々しくていいんです。その話題に興味が持てなくても、相手に「自分の好む話題を私に対して発話してください」というメッセージを送るだけで十分なんです。その空気が出来上がれば、相手はよりリラックスして内実のある発話を始めます。そうなれば「面白い話」である確率は飛躍的に上がります。一回相手の話が「面白い」と思えれば、そこからは楽ですよね。

たとえば、「最近は釣りに凝ってる」って話を相手が始めたなら、無理に自分の中にある「釣り」の知識を出して話を合わせようとするのではなく、「釣りってやったことないんですけど、今何が釣れるんですか?」みたいな合わせ方でいいんです。むしろ、生兵法の知識で話を合わせていこうとするのはとてもリスクが高い。もちろん、話題によっては「俺だってある程度の知識はある」と見栄を張らねばならないタイミングもありえますが、「釣り」の話で自分の知識を多く見せる必要はないですよね。「知らない、でも興味ある、語ってくれ」それだけでいいんです。この白々しい発話さえ出来れば大丈夫です。そして、この「傾聴」の技術には思わぬ副産物があります。

この技、要するに人から情報引っこ抜く技なんです。覚えといてマジで損は無い。人間は「喋りたい」という欲求に究極的には勝てない生き物ですから。人間は大抵、語ってはいけないことを語りたいのです。

 

 語る、いかにして語るか

相手から発話を引き出すテクニックは本当に上記のものだけです。しかし、「傾聴」だけでは会話が続かないこともあるでしょう。相手がとてつもない喋り好きでない限り、「今度はおまえが語るターンだ」というシーンが来ます。「傾聴」が出来ても、自分が語るターンが来たら急にダメになってしまう、という人もいると思います。

この「語り」に関しては技術論の側面が結構あります。発話が得意な人たちは、大体大量の「持ちネタ」「鉄板でウケる話」を持ち合わせています。持ちネタは多ければ多いほうがいいです。また、相手によって選択すべき話題も変化して来ます、この状況を読んで適切な話題を選ぶ能力は慣れです。ただ、「話してはいけない話題」があるのはわかりますよね。僕もよくトチりますが、「無難でウケる話題」のストックを作っておくのは大変良いことです。

しかしその一方で、「面白い発話」をする必要があるのか、といわれたら必ずしもそうではないですよね。あの雑談の上手な彼、常に面白い話してるわけではないでしょう。逆に、「話を聞いたらクソ面白いのにいつも人間関係からはぐれてる人」なんてのもいます。ぶっちゃけ、わりとどうでもいいところだと思います。何せ、あなたは相手に「傾聴」を示しているのですから、相手が「傾聴」を返してきたときは相手と同程度の水準で返せばいい。あなたは相手に対してそれを許容したんです、相手も許容してくれる可能性が高いです。あなたは相手にそれほど面白い話を要求していない、だからあなたも要求されてないんです。(逆に言えば、相手に面白い話を要求する人の雑談が下手なのは当たり前です。ハードルあげすぎなんです、自分にも他人にも)

もし、あなたが「圧倒的な語りの上手さで人を惹きつける人」になりたいなら話は別です。でも、考えてみてください。リラックスした会話のムード、お互いにお互いの発話を尊重しあう雰囲気が出来上がった時って、大抵の会話が楽しくなかったですか?あなたが楽しく雑談できる相手、そんな面白い話をいつもしてますか?してないですよね。それは要するにセッティングの問題なんですよ。

人間というのは、割と返報性の高い生き物だと思います。親切にしてくれた相手には親切を返したい、傾聴してくれた相手には傾聴を返したい。だから、安心してあなたもつまらない話を長くなりすぎない程度にしてください。むしろ、あなたの話がつまらないことは、相手を「そうか、この程度の面白さで大丈夫か」という安心すら与えるはずです。カンバセーションなんてのは、つまるところそんなものです。

また、相手が「一方的に喋りたい」という人だった場合はそれはそれで実に結構なこと。喋らせる方と喋る方では、会話を支配しているのは喋らせる方です。あなたは相手を気持ちよくしている側ですから。「上手に語る」ことは、一回意識から追い出してください。自分が傾聴したのだから、あるいは自分は傾聴するつもりなのだから、相手も傾聴してくれる。そう思っちゃっていいです。結果的にそうならなかったとしてもです。面白くない話を面白そうに聞いて、面白くない話を面白そうに聞いてもらって、そのうちに段々面白くなってくる。それを目指しましょう。

目指すはカンバセーションです。それは許しあう空気です。あなたにヒトラーばりの演説で他人を魅了する能力なんて求められていません。安心してください。そんなもんです。でも、面白いに越したことはないので話題ストックは習慣にしましょう。

 

会話の切り方

その会話が面白かったかどうかは別として、カンバセーションはなんとなく成立した。しかし、終われない。こういうことはよくあると思います。どこで話を切っていいのかわからない、そういう時です。でも、これには明確な結論があります。どこで切ってもいいです。カンバセーションが成立して、立ち去りがたい会話の席が出来上がっているなら、もう問題ないんです。

ちなみに、ちょっと話は戻りますが「いい天気ですね」に代表される、形式的なキャッチボールは、3ターンが目処です。大体この当たりで人間は「これくらいボールを投げ合えば無礼ではない」と認識しています。経験則ですが、ちょっと周囲を観測して確認してみてください。そして、唐突に「それでは」でいいです。これがやりにくいなら、「あ、もうn時ですか!」みたいな小芝居をいくつか覚えておきましょう。よく観察すると、みんな「儀礼的な小芝居」やってます。お互いにそんなもん小芝居であることはわかりきってますが、儀礼に過ぎないので問題ありません。

それでは、カンバセーションの切り方に戻りますが、「相手がどんどん話を展開しているのを切りたい」場合についてですが、「また聞かせてください」とか「続き、教えてください」みたいな文言を挟めばいつ切ってもいいです。結局、会話を途中で切られた人は「俺の話つまらなかったか?」という恐怖を感じますが、それを否定する文言をひとつ出してやればいいだけです。

そして、会話は飽きるまでするより適当なところで切った方が「楽しかった」という余韻を残します。これはあれですね、腹いっぱい食ったものよりちょっと物足りないくらいの量を食べた方が「うまかった」という印象が残りやすいものです。雑談の上手い人は、むしろサッと切ります。相手に「また喋りたい」という印象を残すためです。あなたも雑談の上手な人に上手いこと喋らせてもらったことがあると思いますが、「もうちょっと喋りたかったな」って印象で終わってませんか?人間は喋りすぎるとダレますから。むしろ去りがたい席ほど、勇気を持って終えることが大事です。

また、自分が喋っている場合はもっと簡単です。「喋りすぎました、すいません」って言えばいい。「いやー、~の話になるとつい熱が入っちゃって」みたいに言えば、相手も「いやいや面白いお話でした」って言ってくれます。これがカンバセーションの本質です。それでいい、という健全な割り切りを持つことが一番大事だと思います。

 

つまるところ一番大事なのは

「楽しい雑談、内容のある雑談」は、「楽しくない雑談、内容の無い雑談」を相互の許しあい、認め合った上に生まれるリラックスしたカンバセーションから初めて生まれて来るものだという認識が重要です。何を語るかより、許容しあうことが一番大事なんです。そして、相手を許した分だけ自分が許されることを期待していい。あなたは「傾聴」した。ならば相手も「傾聴」してくれます。また「傾聴」せずずっと喋り続けるなら、それもまた勝ちのゲームです。

面白くないから雑談が出来ない、これは悪循環です。まずは、面白くなかったとしても許容し合う、お互いに自分を出して面白くしていく土壌を作ることが大事です。ファーストコンタクトから相手の心を鷲づかみする面白いお話、出来ませんよね。僕だって出来ません。大抵の人が出来ません。そんなものです。

でも、お互いに相手の話に興味があり、あなたを尊重しますという姿勢をとり続けるうちに価値あるコミュニケーションは生まれてくると思います。ただし、冒頭のお話を繰り返しますが、自分の価値観や人格を晒しあうコミュニケーションは大変リスクを伴います。全ての人とやろうとはしない、「自分は人格も価値感も晒していないが、相手は晒している」という一方的な「傾聴」でも全然かまわない。それはそれで勝ちです。

あなたのお話に興味があります。あなたのお話は面白いです。たとえ、それが本心ではなかったとしても、あなたと興味深く楽しいお話をしたいと思っています。そういう姿勢を白々しくても、嘘くさくても前に出す。それが一番大事です。あなただってそうしてもらいたいでしょう。僕はそうして欲しいです。

他者を許容すること、認めること、少なくとも認めた身振りを取ること。会話を茶番で終わらせないために、まずは茶番をやりましょう。抵抗はあるでしょうが、本当にやるに越したことはないです。さぁ、やっていきましょう。

 

またニューアキンドセンターさんで書かせてもらいました

告知エントリが2回続いてごめんなさい

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とはいうものの、気合を入れた記事を書いたので是非読んで欲しい、そういう気持ちがあります。このエントリは創業社長の会社におけるポジションという極めてニッチな論点なんですが、2人以上の人員で会社を創業したら必ずぶつかると言っていい問題だと思います。また、人間が集まって何かをやるときには必ずついて回る問題と言ってもいいかもしれません。

起業というのは、往々にして成功者の語るものになっていると思います。大失敗こいた皆さんは、潜在的には成功者の100倍くらいいると思うんですが、あまり語りません。そういうわけで、失敗から得られたノウハウの蓄積が極めて少ない界隈だと思います。まぁ、そりゃそうですよね、「自分は失敗した」というところから語り始めるメリットは普通に考えればそんなに多くない。このブルーオーシャンは僕のものです。恥と外聞を放り出すという破壊的イノベーションで手に入れた市場だ、誰にも渡さないぞ。

さて、失敗というのは「AとBの選択肢を選び間違った」というものであることはむしろ少数で、「そこにAとBという選択肢があることに気づけなかった」という場合が多いと思います。実際、経営判断というのは考えれば考えるほど枝が分岐するタイプのもので、気づかないうちにその決断をしていた、ということが少なくありません。そこに決断が存在することにさえ気づいていれば、想像力が働く、上手くいけば助かる、そういう目が出てくる可能性はあります。

人生というのも大抵はこういうものだと思います。そこに崖があるのはわかっていた、しかし判断を間違ったから落ちた、そういうケースってそんなに多くないですよね。「え、ここに崖あったの?」というパターンが多いでしょう。ですから、僕が落ちた崖については「ここに崖あってひどい目にあったよ」という情報をシェアーしたいと思います。

僕の文章を読んで「こんな問題回避するの簡単じゃん」と思う人は多いかもしれません。実際、同じ問題にぶつかった時は回避出来ると思います。しかし、そこにその問題があるということを認識しているということ自体が大きいのです。遠慮なく僕を踏んでいってください、あなたの足場になれれば幸いです。そんで、うまくいったら僕にも分け前ください。いつでもお待ちしています。僕は失敗情報をシェアーする、あなたは成功のおこぼれをシェアーする。美しい世界にしていきましょう。

「あ、これ進研ゼミで見たやつだ」という概念があります。あれはすごくいい概念だと思います。後は、いかに人生を進研ゼミに、あるいは他人の話を進研ゼミにしていけるかだと思います。一回解いた問題はスルっと解けますからね。生々しいケーススタディ、解いておいて損はないと思います。いや多分。

最近は本当に人生がパタパタで、色々なことが連続的に起きており見失い気味なところはあるのですが、まだまだ頑張っていけるだろうと思いますので、何卒宜しくお願いいたします。雑談エントリ最上級編と闇金一郎君の続きもわりとすぐ出します。是非、今後ともご贔屓にお願いいたします。

それでは引き続きやっていきましょう。

 

 

最近の借金玉、記事を書かせていただきました

無能の血反吐

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人生最大に書くのが苦しく、また同時に書く意義があったと思える文章です。本当に辛く、安定剤をザラザラ流し込みながら書きました。しかし、書いた価値はあったと思います。いうなれば「俺が悪かった」「俺が無能だった」そういう結論に至るための長い長い余談なのですが、それでも教訓はあると思う。

つまるところ、僕は失敗者なので「こうすれば成功する」は書けません。「こうやったら失敗する」ですら怪しいものです。でも、「こうやったら失敗した」に関しては書けます。そして、それが誰かの参考になって落とし穴を回避するのに役立てば、本当に幸いです。これは非凡な話でも珍しい話でもニュースバリューのある話でもありません。よくあるつまらない話です。でも、大抵の悲劇はよくあるつまらない話です。

つまるところ、僕はよくあるつまらない人生を生きています。非凡な失敗をすることすら出来ない凡庸な人間です。そういうことを認められるのが三十代になった今になってのことだったというあれですが、まぁそのあれです。読んでいただいた皆さんの人生にちょっとでも役に立てば本当に幸いです。

ちなみにニューアキンドセンター様は僕の納品したクソ長くゴリゴリの原稿をそのままノーカットで掲載する気持ちの入ったメディアです。すごいと思うマジで。僕がこの原稿送られたら「半分に切り詰めろ殺すぞ」って言ってしまう気しかしない。是非、ご一読ください。

 

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あと、最近書かせていただいた記事がこちらです。こちらは打って変わって、「気楽に行け、大丈夫だ」という気持ちを込めました。就職活動、そろそろ佳境ですね。でも、大丈夫です。だって僕だって生きてます。30過ぎて人生はノープラン、これまでに試みた全ては敗れ去った。それでも生きてます。

昔、おっさんたちに「おまえくらいの若さで何絶望したようなこと言ってるんだ」みたいなことを言われて反感を持ったことは僕もあります。若かろうが歳を食っていようが絶望というのはそれぞれに絶望ですし、オンリーワンでナンバーワンの辛さが誰しもある。そういう時は僕をあざ笑うといいと思います。何もかも失敗した場所からもう一回ガチャガチャやっていこうとしているおっさんを盛大に笑ってください。

僕が何とか生存できている程度に社会は甘い。舐めていいです。少なくとも、「社会は厳しい、死ぬしかない」となるには新卒で就職活動をしている皆さんは若すぎます。とりあえず一休み、どうにもならないならまずは休む。そういう対処法を覚えておくのが本当にオススメです。「休む」という選択肢は常に最悪ではありません。ベストではないかもしれませんが、ベターではあり得ます。

さぁ、残念ながら人生はまだ続く。やっていきましょう。

雑談の技術について② レベル2、目的性と問題点の把握

雑談の目的、計り知れない利益

はい、そういうわけで前回に引き続いて「雑談の技術」第二段、レベル2以降のお話になります。今日の話の枕は「雑談の目的」です。というのも、雑談が生まれつき上手な人はそういうこと考えなくていいと思うんですよ、特に何も意識せず楽しく雑談して人間関係も上手くいく、それが理想です。しかし、残念ながら「雑談が苦手」となった場合、それを何とかするには目的意識が必要です。楽しくないことを目的もなくやるのは、大抵の人にとってとても難しいものですから。

そういうわけで、雑談の「目的」というのは、つまるところ「雑談をすることで利益を得る」ことになると思います。「こいつはコミュニケーション可能な人間だ」と相手に思わせることですし、あわよくば好意を勝ち取ることですね。「あの人は話しやすくて感じの良い人だ」と思ってる相手にはちょっと親切にしたくなりますし、一手間かけてやるか、という気持ちになりやすい。10分だけ、自分の時間を相手のために使ってやろうという気持ちを他者に起こさせることに成功すれば、どれだけのことが上手くいくか、たやすく想像がつくと思います。

仕事みたいな人間関係は、周りの人間がちょっと親切にしてくれるだけで全てのことが大変円滑に回るようになります。5人の同僚が一日10分だけ自分のために時間を費やしてくれるとしたら、それによって得られる利益は「計り知れない」と言っていいレベルになるでしょう。ちょっとした仕事のノウハウや慣習は、自力で習得するより教えてもらった方が遥かに楽です。そして、僕たちは「ちょっとした仕事のノウハウや慣習」がわからなくて全てを台無しにしてしまう人たちではないでしょうか。我々が犯してきた多くの失態におけるそれなりの比率が、「誰かが十分だけ親切にしてくれたら回避できた」ものだったのではないでしょうか。

syakkin-dama.hatenablog.com

こちらのエントリで書かせていただいた内容とも重なってくると思います。しかし、「雑談」はより本質的な部分です。というのも、前述のエントリで「見えない通貨」と表現した、「親切にしてもらったらお礼をする」というような人間関係における不可視の交換原則が、「そもそも機能するか」「決済は可能か」というような点を、人間は「雑談」から推し量っているところがあると思います。コミュニケーションのテストみたいなものですね。

雑談というコミュニケーションテストに不合格だった場合、人間は往々にして交換をしてくれなくなります。ちょっとした親切を与えてくれなくなり、些細な(しかし時に重要な)情報を渡してくれなくなります。そういう状態を回避して、可能な限り得をしていこうじゃないか、そして上手いこと人間の中でやっていこうじゃないか、それが「雑談の目的」になります。いうなれば、コストを払って利益を得るそれだけのお話です。

また、「それでも他人に合わせた雑談はしたくない」という選択肢もアリだと思います。その場合は別の戦略性が必要になってくるのではないでしょうか。こちらの戦略は、例えば「人間関係の中で図抜けたパフォーマンスを発揮し続けて、自分とコミュニケーションをとる価値を認めさせ続ける」みたいな方法が代表例だと思います。自分のおかれた状況と特性に合わせて、適切な方法を選択していただければと思います。僕のブログは「たった一つの正しいやり方」を目指すものではありません。「こういうやり方はどうだろう?」という当事者からの提案です。ご参考になれば幸いです。

 

発達障害起因(っぽい気がする)の失敗要因を潰せ

ADHD-喋りすぎる、止まらない

 これは僕の例です。僕は、長らく雑談を「自分の喋り芸で他人を傾聴させれば勝ちのゲーム」だと思い込んでました。そのために「上手に喋るための本」とか「スピーチの技術」みたいな自己啓発書を読み漁りました。「どうやら努力の方向性が完全に間違ってるっぽい」と気づいたのはわりと最近のことです。

 で、「会話をターン制として認識してみよう」とか、「相手と自分の喋る量を等分になるよう調整を試みてみよう」とか色々やってきました。結果からいうと、これらの試みは全て失敗しました。会話は単純なターン制と認識するには複雑過ぎますし、発話の量の調整も会話しながら意識するにはタスクとしての負荷が高すぎる。前回のエントリでご紹介した「レベル1」ぐらいが、僕が会話のために自分に課せる負荷の最大値でした。これ以上はどう考えても無理だ、レベル1だってぶっちゃけしんどい。

そこで、このような意識改革を行いました。「雑談というのは、最小限の発話で最大限相手の発話を引き出したら勝ちのゲームである」という認識に切り替えたのです。要するに、自分の発話量は最小限に抑え込み、相手に「気持ちよく喋らせる」ことに特化する。この意識を持って雑談に臨み、工夫を繰り返すうちにかなり大きな変化が現れました。これまでは、「自分の発話を相手に聞かせる」という楽しさが会話のモチベーションでしたが、「相手に気持ちよく喋らせる」というのはいうなれば会話の主導権を相手に意識されないままに握るということです。これはこれでやってみると面白いのです。

「喋りすぎる、止まれない」という悩みはこの意識を持つだけで、かなりの変化が見込めます。相手の発話を引き出す細かいテクニックの前に、この意識を持つことを試みて欲しいです。目的のあるところに技術はついてきます。「聞き上手になろう」では意識として弱い、もう一歩踏み込んで「相手に喋らせる」まで意識を高めるのが大変おすすめです。かなり劇的に変化すると思います。

 

ASD-共感力の弱さ、形式的同意の下手さ

 前回のエントリで「不同意」は雑談においてあまり得策ではない、というお話をしました。「今日は良い天気ですね」という発話に対して「暑いです」と返すのは、相手のポジティブな「良い天気」という発話に対して否定を加えるということで、あまり感じのよい対話にはならないのです。

しかし、これは僕にも拭いがたくある性向です。相手の発話に共感できないと、「NO」を突きつけたくなってしまう。そして僕は世界の多くのものに共感できない偏狭な人間なのです。「わかるわかるー」とか「すごーい」みたいなことを言えないのです。おそらくここを読んでいる人もこういう応答、大嫌いでしょう。しかし、皆さんもお察しのとおり、あれはコミュニケーションとしてかなり正解です。

では、それが出来ない時にどうすればいいか、これはもうシンプルで「そうですねぇ」「確かに」「ありますねぇ」「ああーなるほど」などの共感的な相槌を機械的に発声して、とりあえず何でも「同意・共感」で受けるのをテンプレ化すればいいのです。「すごーい」って言えないなら、自分が発声しても違和感のない「同意・共感」の相槌をコレクションすればいい。これはコミュニケーションが得意な人を観察すると容易に採取できます。何故なら、彼らがやってることがまさにそれだからです。5個あれば十分です。

そして、人間というのは「とりあえず同意・共感が得られた」までが重要で、その先に否定が来てもわりと気づきません。何故なら、大抵の人間は相手の話なんかそんなに聞いてないからです。例えば「いい天気ですねぇ」ときたら「いやー、本当にいい天気ですね、クソ暑いです」と切り返せばいいわけです。これは実質的に不同意ですが、大抵の人は不同意と認知しません。形式的な同意と共感さえそこにあればそれでいいんです。

原理原則を考えれば、人が何かを発話したらそれに対するレスポンスが同意であれ不同意であれ、コミュニケーションは成立していると考えられるでしょう。しかし、多くの人間は同意・共感が形式的に得られたことをもってコミュニケーションが成立したと看做しています。そういうルールなら話は早い、そうすればいいだけです。ボールをキャッチするということは、とりあえず同意・共感の「身振り」を見せることだと認識してしまえばいい。雑談における応答は、とにかくYESから始める。その後にNOという内容が来るとしてもまずはとにかくYESで受ける。これだけで完全に十分です。

ボールが飛んできたら、YESと書かれたミットで受ける。それ以上のことは何も考える必要がありません。これで儀礼的な雑談の大半はしのげます。さぁ、ミットに大きくYESと書きましょう。雑談は所詮形式的な儀礼です、儀礼としての様式美さえ守っていればそれでいいのです。

人間のコミュニケーションプロトコルが「コミュニケーションが成立している」ではなく、「同意・共感が形式的に成立した」という原理の下に成り立っている点さえ把握できれば全く問題ありません。これは本当に解決するのでやってみてください。NOで受けたら揉め事になったことが、実質的に同じ内容を発話していてもとりあえずYESで受けるというだけで全く問題なくなるのが観察できると思います。

 

余談、「とりあえずYESで受ける」を利用したテクニック

 ちなみにですが、この「とりあえずYESで受ける」は女性(と一部の男性)に関してちょっと難しさがある点は否定できません。というのも、この「とりあえずYESで受ける」を利用して、女性にゴリゴリ迫っていくタイプの男がわりといるからです。男女を問わず自分の要求をネジ通す時の基本テクニックとさえ言えると思います。

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A「Bさん、イタリアン好き?」

B「イタリアンは大好きです」

A「そっか、麻布に美味しいイタリアンのお店があるんだけど、ラム肉は食べれる?」

B「食べられます、美味しいですよね」

A「そっか、じゃあ7月の最初の土曜日は彼氏とどっか行ったりするの?」

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女性の皆さん大体覚えがありますよね。「殺すぞ」って思ってる人もいると思います。いやぁ、こうして文章書いてみると本当に「殺すぞ」って感じしますね。僕はモテないのであまり縁がなかったのですが、やられたら相当ムカつくだろうなと思います。

これは巧妙に「土曜の夜にイタリアンを一緒に食べに行く」に向かって会話を誘導してるわけです。「イタリアンが好きか嫌いか」という質問にはイエスと答えるしか普通はありません。しかし、この時点でドアに足がねじこまれているわけです。

で、最後の「土曜の夜は彼氏と」もテクニックです。本当に彼氏と予定があっても、やや立場が上の男性相手に「土曜の夜は彼氏と過ごします」とは伝えにくいですし、「彼氏はいません」とか「土曜の夜は会いません」みたいな答えを返すと、「じゃあ行こう」に向かって更に足を深くねじこまれます。しかも、「彼氏とどっかに行ったりするの?」という質問の形を取ることで、「土曜の夜は友人と会います」みたいな返答も封殺しようと試みているわけです。

女性は共感的なコミュニケーションを重視する傾向が、一般に男性より高い気がします。自然、「とりあえず同意・共感で受ける」という形式的なマナーの束縛が強い人が多い。それを利用したテクニックなんですね。しかも、普段「共感と同意を返す」のテンプレでコミュニケーションをとっている人ほど、咄嗟に「共感と同意を返さない」という選択肢が取りにくい。雑談では滅多に必要にならない選択肢ですからね。普段やってないことはなかなか出来ないわけです。

でも、今この文章を読んで考えるとどこで「否定・不同意」を返せばいいのか、しかも角が立たないのかって大体イメージ出来ますよね。グイグイ来る男をひっぺがすテク、覚えておいて損はないと思います。ちなみに、このテクニックは商売人も交渉でガンガン使いますし、僕も使います。「最近どう?忙しい?」って聞かれたら、「忙しい」以外に返答はない、というお話ですね。雑談で布石を打って、自分の目的に向かってゴリゴリ導くテクニックはあります。対策はしましょう。これは乗せられるとマジで大損こきます。「いやぁ、忙しいですけど~さんのお仕事ならなるべく頑張らせていただきますよ!」

 

今日はここまで

はい、思ったより今日もゴリゴリの内容になってしまいましたね。本当は実地での会話テクニック、「単語拾いアンサー」なんかも紹介しようと思ってたのですが、とりあえずこの辺にします。今日の内容も皆さんの役に立てば何よりです。

さて、最後にちょっと補足というか冒頭の内容の強調なのですが、僕のこのブログは「それをやれ」という強制でも、あるは「これがたった一つの正しいやり方だ」と主張するものでもありません。しかし、経験から一般化されたノウハウである以上、やはり僕の主観性が強く出ますし、どうしても押しは強くなってしまうと思います。

しかし、あくまでも「参考にしてください」という気持ちで書いています。ある程度距離をとって、「こういうのもアリかな?」くらいの目で見ていただけると大変幸いです。今後ともよろしくやっていきましょう。

 

 

雑談の技術について、キャッチボールが楽しめない僕らのためのお話①

雑談が苦手だ

そういう人は多いと思います。ADHD傾向の人あるいはASD傾向の人にはそれぞれの苦手さがあるでしょう。僕はADHD傾向の「衝動的に喋ってしまう、喋りだしたら止まらない」といかにもASD的な「理屈重視、感情・共感の軽視」の両方を併せ持っておりまして、「雑談」にずっと苦労してきました。というのも、ツイッターの僕を見ていると容易にわかると思うのですが、僕が気持ちよく喋っていると気づいたら「独演会」になってるんですよね・・・。もちろん「独演会」をやった結果、その場にいた皆さんが「いい話を聞けた」と認識してくれれば問題はないんですが、実際のところそう上手くもいかないのが現実でして。しかも、相手の感情への共感性も薄いので、まぁあまり良い結果にはならないことが多かったです。

ADHD傾向の強い方、特に多動性と衝動性の前に出ているタイプの人にありがちなことですが「喋りだしたら止まらない」これは本当に厄介です。結構いますよね、こういうタイプ。独演会をやってるか、あるいは会話からはぐれて靴の先を眺めて時間を潰しているかどちらかしかない、そういう人生を送ってきた人は結構多いのではないでしょうか。僕自身もこの典型例だと思います。

そういうわけで、人生のある時期まで僕の友人は、僕のこの性向を気に入ってくれる人たちだけでした。あるいは僕の止まらない喋りに割り込んで会話の主導権を奪い取りに来るような「強い」コミュニケーションを好む人たちです。そういう人間たちが集まるコミュニケーションの場があったのはとても幸福なことでしたが、社会に出たらもちろんそうは行きません。

このエンドレスに口から流れ出す言葉を制御できるようになったのは、実はそう古いお話ではなくて、二十代も半ばに入ってからです。というのも、会社を経営するようになると様々な人とコミュニケーションをとるのが仕事になってしまいまして、「雑談」というものから逃げられなくなりました。しかもその相手は往々にして自分より遥かにキャリアも実績も上の他社の経営者、あるいは担当者ということになります。なんとかせなあかん、が発生したわけです。

 

社長になったら雑談地獄だった

これは、会社を経営して本当に痛感したのですが、商売というのは「買うほうが偉い、金を払うほうが偉い」という世界観ではありません。海のものとも山のものとも知れない、20代の創業社長と好き好んで取引したい人はそれほどいないのです。アポが取れてさぁ打ち合わせ、という段になったら限られた時間のうちに「私はそれなりにきちんと会話が出来て、信用に足る人間です、お金もちゃんと払えます、あなたの商品を売ってください」というアピールをしなければなりません。ここで失点するとあからさまに対応が雑になったり、あるいは連絡が返って来なくなったりします。お値段も高くなりかねません。コミュニケーションコストの高い相手と取引するのは面倒なのです。

また、売るときは更にシビアです。これは「営業」という概念ですので特に言うまでもないことですよね。商品説明をして、お客さんが気に入ったら買ってくれる。「営業」がそういう牧歌的なものではないことは皆さんご存知だと思います。営業をする時にもやはり「雑談」はどうしても必要になります、いやもしかしたら「俺は商品説明と売り込み以外一切喋らない、個人的な話は一切しない」みたいなスタイルでめっちゃ売ってる営業マンとかも存在するかもしれませんけど、それでも基本的には「雑談力」が求められるのは間違いないと思います。

そういうわけで、社長をやっていた数年間は本当に色々な人と喋りました。取引先各社、そして縁の出来た各社の経営者や担当者、仕事をお願いする業者、商品を売り込みに行く販売先・・・まさに雑談地獄です。また、人間というのはイベントごとが好きなので(僕は嫌いですが・・・)飲み会やらパーティーやらもわりとあります。そういった場の雑談とは「お互いの値踏みしあい」です。好感が持てるか、あるいは持てないか、話が通じるか通じないか、金はどの程度持っているか、どの程度の能力があるか・・・そういうことを会話の端々から探り合うのです。

「こりゃコミュニケーションの方法論を抜本的に変えないと死んでしまうぞ」と心から思いました。努力もしました。苦節の数年を経て、現在は僕も多少雑談能力がマシになったと思います。何せ、経営上のお話って衝動的に語ると情報漏洩とか起こしかねないですし。そういうわけで、その体験から身に着けた技術論のお話を今日はさせていただこうと思います。

 

キャッチボールが楽しめないみなさんと雑談レベル1

ところで、みなさんは父親とキャッチボールをしたことがありますか?僕はありません。僕の父親は子供と遊ぶタイプではなかったので、何かをして遊んで貰った経験というものがほとんどないです。だから、僕は未だにキャッチボールが出来ません、あんなカタいボール投げ合うの怖くないですか。そもそも、あれ楽しいんですか?ボールを投げて、キャッチする。ボールを投げて、キャッチする。どこに面白みがあるのか未だにわからない。

しかし、雑談の最も基礎となる部分はこういうところだと思います。僕があなたに向かってボールを投げる、あなたはそのボールを受け取って投げ返す。ここまで出来れば、とりあえずキャッチボール合格です。コミュニケーション可能な人間であることが確認できました、ということになります。内容は別に何だっていいんですね。例えばこんな感じです。

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A「おはようございます」

B「おはようございます」

A「いやぁ、いい天気ですね(話題の提示)」

B「本当ですね(同意)、今年はカラ梅雨になるんですかねぇ(話題の提起)」

A「雨が降らないのはありがたいけど(同意)、あんまり降らないとそれはそれでねぇ(話題の提起)」

B「水不足は色々大変ですからね(同意)」

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こんな感じです。この会話の内容自体に有用な情報はほとんどないと思いますが、それでもこの会話が初対面の二人の間に成されたものだとすると、かなり重大なやり取りが行われていると言えます。

Aが発話したのに合わせて、Bはまず同意を示しています。その上で連想される話題を提起して、「Aと会話したい」という意思を示しています。それに対してAは「雨が降らないのはありがたいけど」という形でBへの同意と話題を引き継いだことを提示した上で、「あんまり降らないとそれはそれでねぇ」で更に話題の提起を行っています。それに対してBは再度同意を示しています。会話のキャッチボールが成立していますね。

例えば、お隣さんとこの会話をしたら「マトモそうな人だな」という印象を持つでしょう。挨拶をすれば挨拶を返してくれる上に基本的な話は大体通じる人だ。不快な物言いもしない。次回道ですれ違ったらまたちょっと話しかけてみようかな?と思えるかもしれない。このようにして人間同士の基本的な相互承認が発生するわけです。逆に

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A「おはようございます」

B「・・・おはようございます(小声でうつむきながら)」

A「いやぁ、いい天気ですね(話題の提起)」

B「暑いです(不同意)」

A「暑くなりましたねぇ(同意)、雨も降りませんし(話題の提起)」

B「そうですね(同意)」

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これはちょっと難しい雰囲気かな、という例だと思います。先ほどの例と比較するとわかると思いますが、ボールを投げているのはAのみですね。Bは全くボールを投げ返していない。もちろん「BはAと会話したくなかった」ならこれでいいと思います。皆さんが「事を荒立てたくはないけれど、仲良くする気は一切無い」みたいな相手にする対応って大体こんなもんだと思います。しかし、「BはAと仲良くしたいと思っていた」ならやはり多少問題が発生します。

また、「いい天気ですね」にいきなり「暑いです」を返すのは、同意というより不同意に近く、あまり感じのいい応対とは言いにくいでしょう。その上、話題の提起が帰ってこなかったので、Aは「暑い」という話題を引っ張って無理やり話題の提起として扱うしかなかった。ボールが返ってこないと、こういった形で無理やり会話を繋ぐ必要が発生してしまいます。これは結構やる側としてはしんどい。立ち去れないタイプの雑談でこれをやられると結構苦労しますよね。では、少しマシな例を。

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A「いやぁ、いい天気ですね」

B「暑いです。(不同意)夏は苦手で・・・(話題の提起と不同意の理由説明)」

A「暑くなりましたねぇ(同意)、今日はまだ気温上がりそうですね(話題の提起)」

B「そうですね(同意)、汗だくです」

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これだとだいぶ感じがいいですよね。「ああ、暑いの苦手なんだな」という感じで理解が発生すると思います。同意と話題の提起のテンプレートをこなしているだけで、この程度の距離感の雑談なんてのは凌げてしまうわけです。だから、おっさんは「いい天気ですねぇ」とか「雨は嫌ですねぇ」みたいな話をしてくるわけですよ。

またこの程度の深さの雑談において「不同意」はあまり良い結果にならないことが多いです。「いい天気ですね」とポジティブな口調で言われた時に「暑いです」というネガティブな切り返しをするのは、最後の例のように理由説明を伴わない限りちょっと感じが悪くなると思います。基本的には「雑談」は共感的であるに越したことはありません。共感的に振舞うのが苦手な皆さんはこういうところから、「とりあえず同意する」クセをつけておくのを推奨します。「いい天気ですね」と言われた時に「良い天気ではない」と思ったとしても、とりあえず「そうですねぇ」から入るに越したことはないんです。

雑談レベル1まとめです。同意→連想される話題の提起、のループだけ頭に入れておけば大丈夫というお話です。あとは元気に挨拶しましょう、なるべく否定はしないようにしましょう。これでとりあえず、他者と「あの人はちゃんと話が出来る人だ」という相互承認を形成できる筈です。この程度の雑談は、要するに「テンプレをちゃんとやれるか」の確認作業に過ぎません。ボールを投げたらちゃんと受け取って投げ返してくれた、ラリーも数回問題なく続いた。これだけで、人はそれなりに人を信用するものなのです。

 

「くだらねぇ」と言いたい気持ちはわかる

「で、これ何が楽しいの?」という気持ちはわかります。僕も正直言ってくだらないと思います。でも、これが出来ない人間が信用されるのって本当に難しいんですよ。繰り返しますが、この程度の距離の雑談なんてのは基本的にテンプレの繰り返しです。難しいことは何一つありません。快活に挨拶して、相手が提起した話題に共感を示す、あるいは同意して、連想される話題を提起して返す、それだけの作業です。(そして、適宜のタイミングで話題の提起を止めて同意で話を切る。この間合いだと3ターンもやれば十分です)

でも、「これが可能である」ということを示しておくだけで、様々なことが楽になります。具体的に言うと、隣人トラブルなども起こりにくくなるでしょう。

僕の経験上ですが、隣人トラブルを無限に起こす皆さんはこの雑談レベル1が出来ない人が圧倒的に多いです。「あいつは感じが悪い」という印象をひっくり返すのはそう簡単なことではありません。とにかく「感じのいい人」として認識されていて損なことはそれほどないですから、このレベル1だけは確実にこなすことを心から推奨します。それだけで、人間が1段階やさしくしてくれるはずです。

正直に言いますと、僕は人生において長らくこのキャッチボールが大変苦手でした。なんでそんな内容の無い会話をしなければならないんだと思っていましたし、愛想を振りまくなんてのも得意ではなかったです。ボールを投げた、受け取った、投げ返した。これだけが成立すればいいタイミングで、いきなり剛速球投げるタイプの人間でした。しかし、明確にそれは損をするんですね・・・。「あいつは会話の儀式的なキャッチボールが出来ない」と認識されると、人間は恐ろしく冷淡になります。「話せない奴」に対して、人間は本当に厳しい。

型を覚えれば出来ることですので、機械的にやっちゃいましょう。出来れば笑顔も添えておくとなおよし。今日はレベル1なので基本的なお話ばかりになりましたが、正直言って僕がこのレベル1を習得したのは20代です。「もしかして俺ちょっと怪しいかな?」と思った人は、是非一度テンプレの見直しをして、相手の投げた球をしっかり受け止め、受け取りやすい球を返す。それを心がけて欲しいと思います。雑談というのはつまるところ相互承認のための儀式に過ぎません。テンプレ通り機械的にこなして、「感じのいい話せる人」という評価を勝ち取りましょう。

久々に続きものになって恐縮ですが、よろしくお願いします。次回はもう少し難度の高い話をやっていきましょう。

お酒との付き合い方、依存のお話

お酒、好きですか?

最近僕はアルコールを自宅では(少なくとも独りでは)絶対に呑まないというルールを採用しました。というのも、生活が不規則になり独りで仕事をすることが増えましたので、「飲んでいい」となったら呑みながらでも仕事をしていいことになってしまいますし、そのような状態で自己をコントロールするのはおそらく難しいだろう、そういう風に思ったからです。僕は依存性物質に対する自分のコントロール力をとても低く見積もっているつもりですが、それでもまだ過信があるかもしれないとも思います。人生を酒で追い込んだことがあるくせに未だに酒を飲んでいるというのは、自分への過信そのものだと言われても仕方ありません。

とはいうものの、僕はお酒が嫌いではありません。誰かと楽しくお酒を飲み、程よい精神のほぐれ方を良しとする。これは酩酊物質ーいわゆるドラッグ全般ーに言えることなのですが、ドラッグを楽しむにはかなり努力が要ります。セッティング、体調のコントロール、量の加減、全てが意思の力なしには成り立ちません。当然ながらお酒もそうで、「誰と、どのように飲むか」はとても大事です。逆に言えば、そのようなコントロールが適切になされている状態で飲むお酒は、とても楽しい。人生を豊かにしてくれるものだと思います。酩酊の楽しさは意思の力と酩酊のバランスが適切に保たれている場合に限られるのです。

しかし、仕事の最中「飲んだら明らかに仕事のクオリティも効率も落ちる」と自覚しながら口に運んでしまうお酒はそういうものではありません。飲まない方が良いとわかりきっているのに飲んでしまうお酒は、そもそもセッティングが失敗しています。瞬間的にはアルコールの酩酊が楽にしてくれるかもしれませんが、酔いは必ず去るものです。酩酊が去り不快感と後悔だけが残るあれをなるべく体験したくない。そう思って、僕は「自宅で独りでは飲まない」というセルフルールを自分に課しています。

不規則な生活をしながら、自宅で長く文章を書き続ける。こういう状態ほどアルコール依存症に向いたコンディションはそうありません。当分はこれを続けていこうと思っています。

 

ADHDと依存

これは明確にエビデンスが出ていますので、そうなの?と思った方は是非調べていただきたいのですが、ADHDを持つ人は依存症に陥りやすいとされています。僕自身の経験としても、これはその通りです。僕自身も未だに禁煙は成功していません、アルコールを曲りなりにもコントロール下に置けたのは、僕自身がアルコールにあまり向いていなかったからだと思います。直感的にもわかるでしょう、衝動性が強く目の前のことにのめりこみやすい。しかも、スケジューリングや計画がヘタで先延ばし癖が強い。こういう性向を持った我々が依存に強いわけがありません。クッソ弱いです。

また、身近にある危険な依存性物質といえば睡眠薬なんかも筆頭例です。辛いことがあると、つい睡眠薬を多めに、あるいはアルコールと一緒に口に放り込んでしまう。そういう人も少なくないのではないでしょうか。はい、ツイッターで見覚えのある方もいるかもしれませんが、僕自身もやってました。今後は本当にやめようと思っていますが、それでもまたやっちゃうかもしれません。悪い言い方ですが、味を覚えてしまったので再発リスクはどこまでもつきまといます。精神的に袋小路に追い込まれた時、あれを5錠とウィスキーをショット3杯煽れば・・・みたいな気持ちになってしまうことは未だにあります。

また、僕自身がアルコールと睡眠薬を日常的に(それこそ仕事に行く前に)飲んでいた時期も恥ずかしながらありまして、そのせいで病院に叩き込まれた経験もあります。何故辞められた(少なくとも日常生活を曲りなりにもやれるところまで戻った)のか、正直言ってわかりません。つまるところ、僕は依存性物質に対して実質的に無力であるということを認めざるを得ないのです。

依存症になってからそれを治療する術については、もちろん僕にわかる筈もありません。僕は睡眠薬とアルコールの依存症を克服した経験があるわけではなく、たまたま何かの間違いでそこから抜けでただけです。しかし、長期的な依存を形成しなくて済んだのは本当に幸運なことだったと思います。あそこで人生が終わっていてもおかしくはなかったでしょう。少なくとも、僕は明確な希死念慮を持って飲んでました。

ADHDは、という主語を敢えて発達障害全般に拡大しますが、「そのようなリスクはある」ということを是非覚えておいていただきたいと思います。

 

文化と文脈が失われる

アルコール依存症の知人は、僕も結構多いです。精神的な疾病を持っていたり、あるいは発達障害を持っている人のアルコール依存症発症率は、間違いなく高いでしょう。そういうわけで、僕は結構そういう人たちを見てきた方だと思います。そして、アルコール依存が一定のレベルに到達して、そこから帰還できた人を残念ながら僕はまだ一人も見たことがありません。もちろん、連絡不能になったり消息不能になった人たちが僕の知らないところで恢復しているということはあり得るのですけれど。

ただ、アルコール依存に向かっていく過程の中で失われていくものについてはわかったことがあります。それは文化であり、文脈です。久しぶりに会う気のおけない友人と、お気に入りの店で旨い肴をつまみながら飲む。このような飲酒態度は、それほどアルコール依存症発生のリスクを押し上げません。(もちろん、ゼロではありませんが)そこにはお酒を飲む理由があり、楽しみがあり、整えられたセッティングがあります。いわば、良い酩酊に向かう意思が存在しているのです。

その反対が、自分以外誰もいない部屋で終わらない仕事に追い立てられながら、それでも飲む。こういう態度です。あるいは主婦が家事労働の合間に家族の目を盗んでキッチンで飲む。こういう態度です。なんとか精神の袋小路を打破したくて、アルコールと睡眠薬を口に流し込むことに文化があるわけがありません。

また、文化の欠損を加速させるのが貧困です。お金がなければ、必然的に飲むお酒は望んだものではなくなりますし、飲酒を行う場所や機会も選びにくくなる。とにかくアルコールが入っていればいい、どんな場所でもとにかく飲めればいい。こういう態度は、既にアルコール依存症の最初のマイルストーンを越えています。まぁ、ここまで書けば発達障害を持つ我々にとってアルコールというのがいかに危険なものかがよくわかると思います。

重症のアルコール依存症患者の周囲に文化が残っているのを、僕は見たことがありません。当たり前です。依存症が進めば周囲の人間も離れていくし、仕事も思うように出来なくなる。当然のごとく発生する負のループが、人間からあるいは飲酒から文化や文脈を尽く奪い去ります。全てが奪い去られたあとに何が残るか、少し考えてみてください。それは恐ろしいことです。つまるところ、人間は最終的に飲むために飲むようになるのです。これは、合法違法を問わずあらゆる酩酊物質で起こり得ることだと思います。

 

文化を持ち続けること

お金がなくても楽しく飲める。上等な酒ではなくとも、大したつまみはなくても、それでもあの飲酒体験は幸福だった。そういう思い出がある人も多いのではないでしょうか。僕も、友人の三畳間で青臭い文学議論を戦わせながら飲んだハイボールの思い出があります。そして、今でもその彼とは未だに三畳間で飲みます。30を越えたおっさんどもが母校の近くの安アパートで飲み交わすというのはなかなか滑稽な話ではありますが、僕はこの文化をとても大事にしています。

これはなかなか恥ずかしいことなのですが、僕にとって大学というカルチャーはかなり「文化」としてありがたいものなのです。そこには、とにかく金はなくても地位はなくとも名誉も成功もなくとも、それはそれでいいだろう。というカルチャーがありましたし今でもあります。もしかしたら実は無くて、我々があると思い込んでいるだけなのかもしれませんが、別にそれでも同じです。僕らにとってはあるんです。2人いれば文化は生まれます。

これは、いい年こいてマトモに食えてないおっさんたちの慰めの話です。「俺らは人生ヘタこいたがそこそこの大学を出てるんだぞ」という恥ずかしいとしか言いようのない自意識の発露でもあるでしょう。その通りだと思います。でも、2000円でベロベロに飲める居酒屋で「実は最近また文章書いてるんだよ、小説じゃないけど」「なんだ?純文学大好き借金玉が意地を曲げたかぁ?」みたいな話をしながら飲む酒には、意味づけが出来る。そういう酩酊は、救いになりえると思います。

文化は往々にして高くつきます。大好きなシェフのいるレストランで3万円のフルコースに合わせてワインを飲んでれば、余程の大金持ちでなければ上質な酩酊を確保できると思いますが、そんな体験が誰にでも日常的に与えられるわけではない。でも、それでも我々は日常を寿いでいかなければきっと生きていけない。だから、傍から見ればみすぼらしくて情けない文化であっても、大事にするべきだと思います。

もし、あなたが文化を持っていないというのであれば、インターネットは強い味方になります。お金も地位もなくても文化を形成している人たちの群れがたくさん観測できるでしょう。それは往々にして毀誉褒貶あるものでしょうし、あなたの好みに合わないかもしれない。でも、お金がなくて文化も無いところに酩酊だけがあったら、それは時に人を死に至らしめると思います。お金がなくても楽しめる、良い酩酊への意思を発生させる文化を手に入れておくと、致死率はぐっと低くなると思います。

良い酩酊への意思、忘れないでください。僕は酩酊自体はとても好きです。幾ら人生に害を及ぼしえると言われても、酩酊から発生する幸福を否定する気にはなれません。ただ、良い酩酊を発生させるための意思なしに飲もうとは思いません。思わないようにしたいです。すいません、嘘つきました。飲みたいこともあります。でも、なるべく旨くない酒は避けていきたい。そう思います。

 

でも、他人に何かを言う気はない

昔、アルコール依存症の方に「俺にアルコールなしで生きろっていうのどれだけ残酷な話かわかるだろ」と言われたことがあります。その通りだと思います。最早、寿ぐべき日常すら失われた人からアルコールを取り上げることが倫理的なことなのか、僕にはわかりません。それでも人生に希望を持て、なんて言えるほど強い人間でもないです。つまるところ、僕は往々にして他者の人生にアルコールほどにも関わることが出来ないからです。

極論を言うと、酩酊と依存の果てに死ぬのも一つの人生だと思います。実際、そうやって死んだ人間もいました。彼の人生を否定するほどの権利は僕にはありません。でも、どうせなら死なない方がいいとは思います。特に根拠は無いですけど。そして、依存症にならないように、なるべく旨い酒飲もうよって思います。酩酊が好きな人間ならわかってるだろ、酩酊ってのはそれ単体で成立するもんじゃねえんだと。セッティングと適切な摂取方法、つまるところ良い酩酊への意思がないと単なる毒だぞ、と。

この文章を読んでいる人、あるいは僕自身も含めて多くの人が依存症のとば口にいると思います。僕は、自分自身がそれなりに危険な位置にいることを結構自覚しています。来年当たり、回帰できない地点を越えている可能性だってそれなりにあると思います。でも、とりあえずなるべく旨いことやっていこうと。酒を飲むことに自分なりの意味づけをちゃんと行っていこう、そんな風に思ってます。

さて、20時30分。しかし、今日は体調不良で仕事の進みが芳しくもない。じゃあ飲まない。コーヒー飲んで、もう一仕事頑張ります。やっていきましょう。