発達障害就労日誌

色々あるけどまぁ生きていこうじゃないかというブログです。

生活保護と賃貸物件の闇の話

不動産ネコチャンが帰って来ました

不動産ネコチャンが長い旅から帰って来て、情報を語り始めました。不動産ネコチャンはとても賢いネコチャンで、不動産業界を旅しては時々帰って来て、真偽不明の情報を置いて帰ります。そういうわけで、今日のお話は全てネコチャンのお話なので真偽は確定出来ません。多分にネコチャンの予測が含まれています。そういうわけで、そういう見方もできるかもしれない、程度のお話として読んでいただければと思います。

生活保護に関して、僕は「使う必要があるなら即座に使うべきだし、それは権利だ」という考え方を持っていまして、そりゃ税金払って暮らしてきたんだから生存がヤバくなった時には利用させてもらうだろ、というプリミティブな考え方しかない。だから、制度批判みたいなものをあまりする気はありません。

 

おうちがない

さて、生活保護を取るとなった時には色々な条件があります。その一つとして、住居の費用があります。1級地、東京都心なんかに関しては家賃の上限は53,700円まで。これの上に、管理費などを(保護費等から住居費とは別に、生活費から持ち出しで)6,300円払うことが認められています。管理費というのは様々な便宜をあれするための不動産業界のライフハックですので、実質的に「家賃は60,000まで」と考えていいと思います。ネコチャンに「管理費とは何か」と質問したら、「人類の知恵」と答えが返って来ました。

そういうわけで、身代丸ごと失って知人の家に身を寄せていたがついに知人も同居させてくれるのが限界に達し、何とか一人で暮らす必要があるとなった場合、まず自分の住民票のある市役所に出向いて「生活保護取らせてくれ、家も無いので住居資金をお願いします」と言うしかないわけです。そういうことは人生には結構ある。

すると、生活保護担当の方は大体「家がないならとりあえず困窮者のための施設があるからそこに入って、その後予算の範囲で自宅を探してね」ということを言うと思います。まぁ、自治体によって運用に結構幅があるので、あくまでネコチャンがそう言ってるだけなんですが。別のケースもあるかもしれない。ニュースでは、この段階で理不尽にシャットアウトするみたいなこともあるみたいですね。僕は遭遇したことがありませんが、起こり得るんだと思います。

ちなみに、新宿の場合住居確保の初期費用は279,200円、引越し代や生活用品のための初期費用(家具什器費)は別途支給、というルールになっているようです。なるほど、結構いい条件だなって思いますよね。いくら日本一クラスに地価が高い都心といえど、賃料6万円と、引越し資金28万弱があればおうちが見つからないということはないだろう。直感的にはそう思うと思います。何なら「多いんじゃね?」と思う方もいるかもしれない。僕は多いとは思わないですけど、それでもとてもありがたい金額に間違いありません。税金払ってきた甲斐があるなぁ、とは思える。

しかし、結論から言うと新宿区とか港区とかそういうハイな立地で、生活保護受給者が賃貸物件を探すのは結構難しい。ネコチャンはそのように主張しております。

 

高齢者と生活保護者お断りの壁

不動産ネコチャンはとても賢いネコチャンなので、不動産賃貸業が出来ます。不動産屋さんのためのサイトにアクセスして、上記の条件でお部屋を探してみたそうです。結果としては、「お風呂がついていて、住居費の上限に近い金額に妥当なお部屋は一つも見つからなかった」そうです。生活保護受給者というだけで、基本的には断られる。そういうところが大変強くある。まして、更に高齢者であったりすると受け容れてくれる物件はとにかく見つかりません。

大家さんには「高齢者と生活保護者はイヤだ」という気持ちがかなり強くあります。独居の高齢者は死亡リスクがあるし、生活保護者は経験的にトラブルを起こし易い。僕は「いや、家賃の財源は確保できてるし確かにトラブル率は高いかもしれないと思うけど、そんなビビるってほどか?人間なんてみんな死ぬし、それより空室の方が怖くないか?」という素直な気持ちを持ってますが、それでもやはり不動産業界にこの考え方は根強い。歴戦の猛者と呼べる業界人でも「高齢者と生活保護者は可能なら入居を避けたほうがいい」と主張する人は結構いますので、ある種の経験則があるのでしょう。

自分の所有する物件に住む人を選ぶのは家主の権利なので、これを否定するつもりはありません。それはしょうがないな、と思います。ここまではわりとニュースなんかでも言われてることですね。独居の高齢者が部屋を借りられないという話はメジャーだと思います。実際、かなり強烈に借りるのが難しいです。これについては本当に世知辛い話ですが、そうであるとしか言えません。年齢が嵩んできたら対策を打たないとダメだな、と思います。リスクが高い客だと認知されるということは、もし物件を借りられても高い賃料を取られるということです。残念ながら、資本主義世界は社会的信頼の低い弱者ほど余計な金がかかる仕組みになっています。

 

あれ、でも生活保護受給者歓迎ってカンバン掲げてる不動産屋あるよな?

はい。そろそろ「いや、今検索してみたけど、新宿区でも生活保護者も高齢者も受け入れるって表明してる物件いっぱいあるじゃん、専門の紹介サイトもあるし。それに、『福祉課』とか勝手に名乗って生活保護受給者にアピールしてる不動産屋も見た覚えあるぞ」みたいなご意見が届く頃だと思いますが、その通りです。

あるにはあるんですよ。実際、生活保護受給者かつ高齢者であってもとにかく住人を入れたい、そう考えている大家さんが新宿区に全くいないわけはありません。いくらブランド立地とはいえ、駅から15分みたいな築古物件などは通常客付けに四苦八苦していますし、生活保護受給者は収入がしっかり担保されているのでその点は安心とも言えます。お金を払うことが出来なかったり、あるいは払わなかったりした場合は役所と相談することも出来ます。ここまで全面的なお断りになるのは通常考えにくい。需要があるなら商売にする、それが資本主義ですから。そこに需要があるなら、リスクを加味しても儲かる仕組みとお値段を考えればいい。それだけのことです。

では、何故不動産屋さんが「ウチの管理する物件はこれだからみんな客つけてー」って情報を交換する集約サイト、いわゆるレインズですね(他にもあるけど)、に生活保護受給者歓迎の物件がほとんど載っていないのか。なにがなんでも生活保護者はお客さんにしたくないのか?でも、生活保護受給者でも入居させたい大家さんが存在しないわけないよな?実際、ネットで調べると募集してるところはいくつもあるよな?何故不動産屋さんの情報網にその物件が上がってこないんだ?

これは大きな謎です。さぁ、皆さん考えてみましょう。

 

世界の仕組み

家賃というのは自由に設定できます。そして、敷金礼金というのも自由に設定できます。お部屋を借りる際に、その気になれば礼金は3ヶ月みたいなことも不可能ではありません(そこまで露骨なことをやる業者は多くないと思いますが・・・)。そして、生活保護を受給する人は、先述の予算枠の中で物件を探しますが、この枠を全部使い切っても、あるいは可能な限り安く済ませても特段本人に損得はありません。余ったお金が貰えるわけでもありませんし。

そして、不動産屋さんは他社さんに自社の管理物件にお客さんをつけてもらった場合は、通常家賃一か月分の仲介料を払わなければなりません。(このお金は根源的には大家さんが出費するものです)これは商習慣なのですが、不動産オーナー、いわゆる大家さんは管理会社に自分の物件の管理をお願いし、お客さんを集めるための費用を管理会社に支払います。また、不動産賃貸には「広告料」(いわゆるAD)という概念が存在し、これは要するに営業マンに支払う仲介料の上乗せボーナスです。条件の悪い物件は「この物件に客つけた奴には通常の2倍(もっと多いこともある)の報酬を払うぞ!」というあれをして、なんとかお客さんをつけてもらうわけです。

大家さん⇒不動産管理会社⇒賃貸営業マン というお金の流れはわかってもらえたでしょうか。大家さんは、「広告料家賃2か月分出すから、なんとかこの物件にお客さんつけて」という感じで不動産管理会社にお願いします。不動産管理会社は、そのお金を使って「この物件に客つけてくれ!報酬はこれだけだ!」という告知を行い、営業マンを動かします。そして、営業マンは部屋を借りるお客さんをつけたらお金がもらえる。これが賃貸不動産業界の基本的な仕組みです。

カンの良い方はそろそろ勘付いたのではないかと思います。そう、管理会社にダイレクトにお客さんがやってきて「この物件貸して」と言ってくれれば、管理業者(あるいは大家さん)は他社の営業マンに仲介料を払わなくて済むのです。これは大家さんと管理会社さんの間の契約にももちろんよるのですが、例えば大家さんが広告料2ヶ月分を出す、と言った物件にいきなりお客さんが入ればその広告料は管理屋さんの丸ごと手残りになることもあるでしょうね。「広告料」であって預託金ではないですから。仲介料1ヶ月分、そして広告料2ヶ月分。この時点で、家賃3ヶ月分の儲けです。(もし管理会社さんが儲けをとらなかった場合は大家さんが儲かります)

そして、市場にほとんど物件が出ていない以上、生活保護受給者が賃貸物件を借りようと思ったら、自分の足で不動産屋さんを回るしかありません。待っていればお客さんが来るのに、余計な費用をかける必要はない。そういう考え方はありますよね。(もちろん、厳密には色々ルール的に問題あるんじゃない?というあれはあるのですが)

 

エクストラ・ボーナス

更に話は続きます。ここまで、「自社で直接お客さんをつければ仲介料を払わなくて済む分儲かる」「場合によっては大家さんから貰う広告料を総獲りすることもできるかもしれない」という不動産管理会社の旨みのお話をしましたが、まだ話は続きます。例えば、生活保護受給者が「お部屋貸して」とやってきたとき、ちょうど自社の管理物件にちょうどいいものがあった。そういう時、賢い人間はどうするでしょう。そう、「礼金0」の0を2に書き換えますよね。

この一筆で、お家賃5万の部屋なら10万円の純利益が発生するわけです。コストはほとんどゼロで。そして、もちろんお家賃は生活保護における住居費の上限めいっぱいに設定しますよね。だって、生活保護者にとって住居費は安く上げてもどうせ自分の手元には残らないお金です。礼金だってそうです。払ってしまっても懐が痛むわけではない。となれば、ここに問題は何一つ発生しません。その金額で借りるというお客さんがやってきたから貸した、それ以上でも以下でもない。

更に、生活保護受給者の住居確保には別途引越し費用や生活用品などの初期費用の支給もあります。この引越しなどをまとめて請け負って、上限目一杯の料金を請求して、どこかの引越し会社に下請けに投げればここでも利益が抜けます。賃貸と引越しはワンセットみたいな概念なので、不動産屋さんは通常引越し屋さんとも仲良しです。これは単純な足し算ですが、ここまでで「部屋を一つ貸す」という商売で通常の何倍の利益が取れるでしょうか?

もっと賢いことを考えると、不動産屋さんの情報交換サイトにおける通常の募集では「生活保護者お断り」、そちら側から生活保護受給者が来た時はシャットアウト。そして、管理会社である自社に直接生活保護受給者がやってきた時は満面の笑顔で「どうぞどうぞ」。そんなことも出来るかもしれません。

 

537物件の闇と生活保護受給者というプラチナ顧客

さて、ここで話は不動産仲介サイト(レインズ)に戻ります。公開市場に僅かながら存在する、生活保護者向けの物件は大抵、「家賃53,700円、管理費6,000円」です。そして、礼金は2ヶ月要求されています。そして、これは主観評価で恐縮なのですが、明らかに賃料に見合うお部屋ではありません。しかし、一般的な不動産屋さんはこのサイトからお客様に合うお部屋を見つけて紹介するので、「あなたの条件で借りられる部屋はここしかない」と言う他ないのです。

「そうかここしかないのか」と思ったお客さんは、「生活保護受給者が相場通りの部屋に住もうなんて無理なのか」という諦めを持つ他ないと思います。僕はこういう物件を53,700円なので537物件と呼んでます。(これは東京都心部の1等地における家賃扶助の上限額です)明らかに、このスタイルのビジネスを狙って展開している業者、あるいは大家さんも存在しているようです。お風呂のないこの立地のこのお部屋にこの賃料とこの礼金か・・・という物件は存在しています。普通の人は間違いなく借りない物件です。でも、出しているということは借り手がつくこともあるんでしょうね・・・。

そう、ここまで書けばわかるとおり、生活保護受給者というのはうまいことやるととても儲かるお客さんなのです。自社管理の物件に他社の営業マンの力を借りずダイレクトに入居してもらえば、本当に儲かる。つまり、生活保護受給者の選択肢は二つです。自分に物件を貸してくれる物件を管理している不動産屋に当たるまで探すか、もしくは相場から大きくかけ離れた理不尽なお値段の部屋を粛々と借りるしかありません。

スマートフォンやPCを使いこなしてインターネットにアクセス出来る若い世代は、多少はマシです。ちょっと検索してみたらわかるとおり、ダイレクトにインターネットから生活保護受給者のお客様を拾おうと動いている人がいっぱいいることがわかります。こちらにアクセスすれば、とにかくマトモな部屋を手に入れることは叶うかもしれません。しかし、高齢者なんかは絶望的ですね。足で探す体力もないでしょうし。こうなると、そもそも部屋を借りることすら出来ず、施設から出られない。そういうことも起きるでしょう。

 

地域を変えればいいんじゃないか?

はい、それはその通りです。賃貸不動産の需要が大きい都心部に限った現象だと思います。少し地方に出れば、「生活保護者だろうが高齢者だろうがとにかく今すぐ客をつけたい!」という大家さんの絶対数が増えるので、結果的に相場は落ち着きます。場所によっては争奪戦になっていることだってある。しかし、生活保護という制度は住所を持っていることが受給の条件なんですね。ということは、他の地方に転居して生活保護を受給しようと思っても、とりあえず家を借りないと話にならないわけです。知人の家に転がり込む形ではダメです、世帯収入という概念があり血縁に関係なく同じ家に住んでいれば「世帯」になりますから。(コメントでご指摘あり、例外的に同居のまま「世帯分離」が認められることがあります。ただし、条件面がありますので各自お調べください)

生活保護受給者の存在数に自治体ごとの偏りが出る理由がわかりますよね。生活保護をとりやすい地域というのは、「自治体が生活保護をくれる地域」ではなく、生活保護の受給条件を整え易い地域なのです。平たく言えば、とりあえずドヤに小銭を払って住所を確保し、住民票を発行し、生活保護を受けにいけばいいわけです。しかし、新宿区や港区ではそれは難しい。おうちを失って身を寄せた先が新宿区の知人だった場合、生活保護の受給にはクソ高い壁が立ちふさがるわけです。高齢者にとっては特に。自治体だって、新たに生活保護受給者の住人を受け入れたいとは思っていません。行政管轄の壁が立ちふさがります。もちろん、日本にいる限りは死ぬことはないでしょうが、困窮者が施設から出るのはとても難しくなるでしょうね。高齢生活保護受給者が、「生活を手助けしてくれる知人の近くに住みたい」と望んでも、それはなかなか叶わないでしょう。

とても世知辛い話です。また、これらの構造を的確に把握して正しく立ち回ることを困窮者に求めるのは無理にもほどがあります。途中で何もかもわからなくなって、パーンとなってしまう人も多いでしょう。抽象的な表現ですが。このような壁にぶち当たって、そのまま全てを放棄してしまう人というのは結構いると思います。

 

世界は厳しい

これはあくまでネコチャンのお話です。実際、ある程度間違っているところもあると思います。うがち過ぎた予想もあるかもしれません。しかし、そこに絡み合った人間の利害とその真ん中でわけもわからないまま翻弄される困窮者という実態は間違いなくあると思います。だからといって、法律の範囲で利益を求める不動産屋さんもあるいは大家さんも、別に必ずしも法に反することをやっているわけではないですし、完全否定することは難しい。そこに合法的な利益の道があるなら、貪欲にそれを求めるのは商人として当たり前のことです。従業員に給料を払うには儲けなければなりませんし。

自治体の間の壁、資本主義の壁、知識と情報アクセスへの壁、もちろん水際での生活保護受給を防ぐ有名なあれももちろん存在するでしょう。本当に問題がグチャグチャに絡み合っていて、「生活保護の受給なんて不可能だ」と主張する人が出てくるのも実によくわかります。実際、この文章における理解もまだまだ不足で、見えていない問題、あるいは見過ごしているものが多々あると思います。これは、問題のほんの一部に過ぎないでしょう。地域や状況によってのケースバイケース性も事態の悪化にどんどん拍車をかけています。

困窮者ほど、社会的弱者ほど多くの知恵とコスト負担を求められるというのは、資本主義の必然の帰結ではあるのですが、実に厳しいものです。僕に出来ることなど何一つないでしょう。ただ、この文章が読んだ人が何かを考える、手助けになれば幸いです。あるいは困った時に上手に立ち回る手助けになれば幸いです。

不動産ネコチャンは再び旅に出ました。また帰ってきたら知見をご報告させていただこうと思います。ありがとうございました、やっていきましょう。

 

※ブックマークコメントにて指摘があった点を太字にて追記、ご確認ください。管理費は、生活保護費から「持ち出しで」というニュアンスが伝わらなかったかと反省しております。尚、生活保護費「等」としたのは、収入がある状態で生活保護を受けることは可能であり(年金などが頻発事例)、保護費からの支払いとは限らない点を加味しました。

 ※id:iidacooi4 生活費を管理費として支払って、賃料に転嫁することに関しては地域性が高そうです。先日僕が役場でヒアリングしたときは、6300円までという話を聞きました。賃料が極めて高い地域では、例外的であることを承知しながら、実際的な都合からこの運用になっているのかもしれません。ただ、CWごとに見解の差がある可能性も高く、僕がヒアリングした担当者が実務的なミスを犯していた可能性もあります。「私の個人的な取材に基づけば認められているという発話があったが、実際のところは認められない可能性も高い」という点をここに追記いたします。僕もこちらの点に関しては、担当者に再度のヒアリングを実行します。(ご紹介の記事は通達へのリンクが死んでいたので今のところエビデンスが確認できていません、確認を行います)

この記事の内容は全て正しいとは限らない上、自治体ごと担当者ごとに実務的な差異はある可能性が高い点、加えてご留意願います。情報ありがとうございました。

生活保護受給の予定であることを隠して賃貸物件を借りることについては、僕の知識の範囲外です。可能であるとしても「可能である」と公言は出来ないですし、かといって現実的に住居が調達できない生活保護受給者がそれを実行するのを批判する気にもなれません。ノーコメントで。

※id:bottomzlife この記事は、基本的に「家なしの人間、即ちホームレス状態にある人間が生活保護を受けて住居を手に入れる場合」という話なので、基本的にはそのお話に該当すると存じます。僕の先日のヒアリングでも、「出る」というお話でした。ただ、例外的な話、あるいは実務上「出ない」ことも大いにあり得ると思います。その点、ご留意いただければと思いますし、「出る」と言い切れるだけの知識は僕にはありません。僕が行った実務の上では出ると提示された、というお話までです。

 

※id:bottomzlife 収入ゼロ家なしの状態から、支給されるお金を原資に住居を調達する場合、というケースのお話ですので、その点が伝わらない書き方であったなら申し訳ありません。不動産屋の立場としては、収入を申告する際は正直に行っていただきたい、例えば生活保護費と就業による賃金を、まとめて「収入」として申告されるのは避けていただきたい、というところです。ただ、それを「やる」方を否定する気はありません。ノーコメントです。実際、働きながら生活保護をもらっている人が、それを正直に不動産屋に申告した場合に不利益を蒙る、ということはありえると思います。その点については、本当に何も言えない。それを隠した人を責める気にもなれないけれど、立場としては肯定もできない、というところです。

id:bottmzlife身代丸ごと失って知人の家に身を寄せていたがついに知人も同居させてくれるのが限界に達し、何とか一人で暮らす必要があるとなった場合」という記述が本文中にございますので、ご確認ください。ただ、私の書き方が誤解を産むものであったかもしれない点は申し訳ないです。表現を工夫する努力は続けますのでご容赦ください。

はてなブックマーク - bottomzlife のブックマーク

id:bottmzlife氏よりこのような指摘があった点を重ねて付記致します。私の文章への批判となっておりますので、ご参照いただければと思います。大変申し訳ありませんが、こちらに提示させていただくことを以って、応答とさせていただきます。あとは読み手のみなさまにご判断いただければと。

記事を書かせていただきました、あと前回のエントリの話

ニューアキンドセンター様で記事を書かせてもらいました

new.akind.center

ちょっと思い入れのある記事なのでブログの方でも告知させてもらいます。起業、「成功」とか「失敗」以前に、そもそもハメられていたというパターンが結構あるよね、というお話です。これ、ハメられた人がまずオフィシャルに話題にすることはないのであまり出てきませんが、「起業」「独立」とか「自由に生きる」とかそういう話が出てきたら、とりあえず眉に唾つけた方がいいと思います。

度々アキンドセンター様でお話させていただいている「出資者を選ぶ」という話、つまるところこういうことなんですよね。起業をする以上、出資者は出資した額を全て失うところまでしかリスクがありません。しかし、出資を受けた側は自分の人生と、人を雇えば他人の人生、更に事業の行く末についての責任を負ってしまうわけです。平たく言うと、辞めたくなってもそう簡単には辞められなかったりします。そういうわけで、社長というのは実にしばしば死んだり失踪したりするわけです。会社辞めるより人生辞める方が簡単だったんでしょうね・・・。まぁ、わかる。

僕が起業大失敗話をこうやってさせていただいているのも、つまるところ死なずに済んだからで、何故死なずに済んだかというと出資者が大変理解のある方だったという一点なんですよね。もう少しタチの悪い人からお金を引っ張ったら死んでたと思います。

syakkin-dama.hatenablog.com

こちらの記事も記憶に新しいですが、辛島さん元気にやってますか?辛島さんはとても素直で正直な方でしたが、その背後には人間の底すら知れない悪意を感じましたよね。でも、たぶんあれも違法じゃないと思うんですよ。(もしかしたら違法かもしれないけど)なんにせよ、起業とか独立みたいな世界に打って出るということは、どうしてもこのようなリスクを孕む話です。

リスクをゼロにすることは出来ませんが、後悔のないようしっかり考えて進んでください。ただ、起業とかの話になると「いざとなったら全部捨てて命だけは守れ」みたいな概念が通じなくなることがままあります。それこそ、親に借金の保証人のハンコつかせたりしたら「会社が潰れたら実家が売られる」みたいな話になるのもよくあることですし、会社名義の借金の保証人に大事な人をつけてたら代表取締役を辞めても保証人外せなかったりしますし。「最大どこまで失ってもいい」という線を引いて、その範囲内でリスクをとっていくなどが考えられるんですが、会社経営で金を必死で回してる時にそのラインを守りきれるかというのもとても難しい話です。

そういうわけで、創業初期に避けられるリスクは避けられるだけ避けて、明らかな罠に飛び込むことくらいは避けよう。その先は各自やっていきましょう。そういう世界観になります。元エントリで登場した悪魔のような出資者ですが、普通に実在します。こないだも「社長100人募集」みたいな求人広告打ってる会社ありましたよね・・・。そりゃ、100%出資で持ち株ゼロで社長やってくれる奴なんて欲しいに決まってる。

皆さん、良い人生を。

 

前回のエントリの話

syakkin-dama.hatenablog.com

このエントリの反響が大きく、賛同から批判まで実に様々な声が届いています。いろんな人に読んでいただけて大変ありがたいです。どうもありがとうございます。ところで、僕は「レール」というか「学校教育」にあまり良い感情を持っていません。本文を見ればわかるとおり、「辞めればよかった」という気持ちがとても強いです。

だから、レールから完全に離れてもやっていく方法について語るのがメインになってしまっていますが、「レールから離れない」、ストレスや苦痛を最小に留めながらレールを最大限利用するやり方というのも、もちろんありえると思います。そちらの方法論を書ける方はぜひ書いていただければ、ツイッターなどでご紹介させていただきますし、本エントリの学生さんにも参考にしてもらいたく思います。

こういう問題に唯一絶対の正しい答えというのは存在しにくく、ケースバイケースの色が濃いのですが、皆さんのご意見も是非伺いたいです。よろしくお願いします。そして、エントリに登場する学生さんは親御さんともコミュニケーションを取って「とりあえず休息をとろう」というフェイズに入りました。話はまだまだこれからで人生もまだまだこれからですが、いくらかでも力になれれば嬉しい、というところです。

 

いろいろありますがやっていきましょう

僕は僕で、この数ヶ月はかなり激動の数ヶ月だったわけですが、それでもまだやりたいことはいっぱいありますので、引き続きやっていきます。躁鬱は無事躁に突入して、身体が軽くなってきましたが、そういう時こそ危ないので注意していきます。

今後ともこのブログを何卒よろしくお願いいたします。やっていきましょう。

学校が辛いあなたのためのお話

とても辛い連絡が来ました

とにかく学校が辛くて辛くて仕方が無い。居場所もなく、自分はまるでいないものとして扱われている。時々かかる声はからかいや嘲りのみ。そして、発達障害ADHD)という診断も受けていて、二次障害の鬱も発病しつつある。学校に通い続けるのはもう限界かもしれない。死にたい気持ちも強くなってきた。そういう状況にある中学2年生の方からご相談がありまして、直接返すには少し内容が長くなり過ぎるので、こちらで応答させてもらいます。ついでに、同じような状況にある人にも届けばいいなぁと思います。

まず、なんですけど。とてもその気持ちはわかります。僕は中学校はまだマシでしたが、高校は完全にその状態で非常に辛かったことを覚えています。小学校も辛かったですね。グループを作る授業、体育、音楽の授業の共同演奏など本当に苦痛でしかないですよね。どこにも居場所がなく、授業中が一番気が休まる。そういう状態だと思います。寝たふりをするのも辛いものがありますよね。これから先修学旅行などもあるでしょうし、本当に辛いと思います。そして、中学校に通い続けることすら出来なくなりそうだという恐怖とも戦っている。本当に、本当に辛いと思います。

そういうわけで、精一杯アドバイスさせていただきます。

尚、ご連絡いただいた文面から見て、十分一般的な大人と同じだけの文章読解力がある方だと認識しましたので、子ども扱いはしません。一人の個人として、僕のお伝えできることをしっかり伝えさせていただきます。文章が少し堅苦しくて読みにくいかもしれませんが、そこはご容赦ください。

 

まずは学力のお話

 中学校に通わないデメリット

これが高校なら「辞める」という選択肢は大いにありです。大学入試は学力さえあれば突破できますし、大学にさえ入り込めれば高校中退が人生においてそれほど大きく不利になることはありません。要は、勉強さえしておけばいいわけです。しかし、中学校となるとそうもいかない。その上、調査書(内申書)という概念も絡んで来ます。これは地域差があると思うんですが、僕の出た中学校はA~Mの評価をつけるシステムで、僕はHでした。(平均評定2.7くらいですかね)

この調査書の評価が低いと、偏差値の高い高校が実質的に受けられなくなるんですね。(当日点一発勝負式などの例外もあったりもするけど)そして、この評価は学校を休みまくったり、提出物を出さなかったり、授業態度が悪かったり、あるいは小テストを受けなかったりするとびっくりするほど下がります。テストがオール満点でも3がついたりします。(しました)僕は中学校に半分程度しか登校しませんでしたが、結構酷い調査書の数字でしたね。

つまるところ、中学校を休み過ぎると高校入試にガツンとハンデを負わされるということです。そして、高校の授業内容、あるいは質というのは偏差値に比例して非常に大きく変化するようです。僕の通った高校の授業は、高難度の大学入試への対応は全く出来ないシロモノでした。そうなると、大学入試に措いて高校がむしろ足かせになるという事態が生じてしまうわけです。難関大学の合格実績がほとんど無いような高校には、そもそも受験に対応するカリキュラムが存在しません。こういうところに通っていると、無意味で無価値で低質な授業を受けながら、余剰の時間で大学入試対策をするという苦行が必要になってしまいます。

これはかなり厳しい仕組みです。ペーパーテストで測定される学力とは全く無関係に、中学教育に上手く適応出来なかった子どもにはハンデを負わせる仕組みになっているわけです。大変シビアな話になって恐縮ですが、中学の授業を多く欠席するということは、受験に措いて大変大きいハンデを負うことになります。私立高校だと、調査書の数字をあまり見ないところもあるとは聞きますが、これもコストという大きな問題が出てきます。とりあえず、これだけのデメリットがあるという事実は踏まえておく必要があります。

それでも行かないという選択肢もある

しかしもちろん、学校に通う苦痛が限界を超えている、ご相談をいただいた方の場合は発達障害の二次障害も出てきているということなので、限度を越えたら「通わない」あるいは「ガツンと休む」という選択肢もあるということを覚えておいてください。あなたの健康が第一です。とりあえず、心療内科には通われているということなので、お医者さんとよく話してみてください。もし、お医者さんがイマイチだと感じた場合はセカンドオピニオン’(要するに別の医者を試すということ)も検討してみるといいと思います。

僕の場合は躁鬱病双極性障害)でしたが、心の病気は一度重症化すると大変長引きます。ひどくなる前に休むのが何を差し置いてもベストです。その判断については、あなた自身が「これ以上学校に通うのは限界だ」と明確に感じたとき、そしてお医者さんが「休みなさい」と言った時のどちらかです。このどちらかにぶつかった時は躊躇いなく休んでください。もうだめっぽいと思ったら、何を差し置いても休んでください。

それこそ高校に一切通わなくても高卒認定を受けて大学受験資格を得ることは可能です。あなたのペーパーテスト上の学力にそぐわない高校に入学せざるを得なかったとしても、自力で勉強して大学目指すことも(多少めんどくさいけど)出来なくはありません。僕自身はタイミングを逃して移れませんでしたが、単位制高校という選択肢もあるようです。もちろん、お住まいの地域がわかりませんのでこれらの選択肢がどの程度採用可能かは予想できませんが、まぁぶっちゃけ大学入試なんて勉強すりゃ受かる。大丈夫だ。それよりあなたの健康状態の方がよっぽど大事だ。

勉強はしよう、絶対にしよう

 これは最後にとても重要なことですが、学校に通わないという選択は大いにアリです。しかし、勉強をしないという選択をすることは(体調が悪くて出来ない場合は別ですよ)絶対にお勧めしません。もし、ある程度の長期に渡って学校を休むという選択をされる場合は、自力で勉強を追いかけましょう。なんなら、追い越すつもりでやるといいと思います。受験用参考書でもいいですし、教科書を追ってもいいです。

学校を休むという選択をする以上は「自分で学ぶ」ということを身につけなければ、将来において非常に大きなハンデを負うことになります。特に、英語と数学はここで転ぶと先が非常に厳しくなります。僕もこの辺は大変苦労しました。逆に、「授業なんて受けなくても余裕じゃん」くらいの学習習慣をここで獲得しておけば、それは中学校を休まず卒業することより何百倍も大きな価値があります。

ポイントはたった一つです。中学校で登校拒否になろうが、高校を中退しようが、自分で勉強することさえ出来れば世の中なんとでもなるんです。少なくとも、大学入試までは。学校で6時間かけている学習は、つまるところ大した質ではありません。(まぁ、ものすごく偏差値の高い私立中学とか通ってる場合は別だろうけど)正しい学習習慣さえ身に着ければ、個人差はありますが2~3時間の学習で十分に追いつけます。そもそも、体育とか美術とか道徳とか受験には全くもってどうでもいい科目も多々あるわけで。

テストはそれなりに上位の点数を取っているということで、学校というシステムの中で学ぶ能力には問題がないようですので、もし学校を休むことを決意したら、少しずつで構わないですから「自分で学ぶ」ことをやってみましょう。公立中学の教育システムなんて、所詮学力ごちゃ混ぜの30人に均等に教える程度の質の悪い指導です。あなた一人でやる方がよっぽど効率が良いのは当たり前じゃないですか。

しかし、そこまで「自主学習」の力をつけるにはそれなりの努力が必要です。もし、学校をある程度の長期に渡って休むことを決めたのなら、必ずこれだけは身に着ける努力をしてください。(何度も言うけど、体調と相談しながらですよ)もしも、自力でそれが難しいと感じた場合は、親御さんが許すのであれば質の良い家庭教師や塾を検討してみてください。しかし、まずは「自主学習」が一番大事です。

これさえ身に着ければ大丈夫、というくらい重要なスキルです。これさえあれば大丈夫だが、これが身につかなければ将来にかなりのハンデを食らうことになる。そこだけはシビアに認識してください。ご友人を通して、僕にこれだけしっかりとした内容の相談メールを送れるあなたなら、きっと大丈夫です。

 

レールから降りるということについて

 僕は小学校で登校拒否をカマし、中学校は半分程度しか登校せず、高校は留年寸前の出席日数で卒業しました。レールから完全に降りることも、あるいはレールにしっかりと食らいついていくこともしない、非常に中途半端な立ち位置で人生をやってきたわけです。これは、大変良くなかったと思っています。小学校、中学校、高校、大学という流れにしっかりと乗れれば、それはそれで得です。中学校で良い成績を取り、難関大学受験の指導カリキュラムを持つ高校に入り、満足できる大学に入る。この流れに乗れるのが一つの理想像であるのは間違いありません。

しかし、そこから降りて自分一人の道を歩くのもそんなに効率が悪いわけではないんです。何度も言いますが、高偏差値の私立中学でもない限り、授業の質なんてのは正直に言って悪いです。これは一回指導する側になってみたらわかりますが、能力に大きな差のある30人程度の生徒に対して一人の教師が指導するなんて、良質な教育になるわけがありません。自主学習の習慣をしっかりつけることが出来た人間なら、自分ひとりで勉強する方がよっぽど効率が良いんです。僕も高校に関しては、さっさと退学しておくべきだったとずっと後悔し続けています。

 しかし、レールから降りることで失われるものもあります。自分の進路を、自分の将来像を、たった一人で考えなければならないということです。なんとなく中学校に通い、なんとなく成績相応の高校に入り、なんとなく成績相応の大学に行くか、あるいは就職する。こういう風に「なんとなく」人生を先に進めてくれる力がなくなります。それこそ、何もしないまま数年間過ごしてしまった、そういうことになってしまうリスクは当然あります。

結局、道は二つしかありません。苦痛を抱えたまま学校教育のレールに乗っていくか、苦痛から解き放たれる代わりにそこから得られるメリットも放棄して、自分自身の足で歩くか。もし、中学校にこれ以上通わない、あるいは一定以上の長期の休みを取るという選択をするのであれば、調査書の数字は落ちるでしょう。テストだけ出るなどの選択肢もあり得るでしょうが、それでも高校受験の幅は狭まってしまうと思います。でも、そのデメリットを踏み越えるのはそんなに難しいことではありません。

尚、私立高校への進学が可能だったり、あるいは地域によって公立でも調査書をあまり重視しない高校があったりするという話も聞きます。この辺は地域格差も大きくて、自分で調べてもらうしかないのですが。そういうのがあるなら狙ってみるのもいいですね。

 

学校生活、集団生活について

発達障害ADHD)の診断を受けているとのことですが、やはり学校生活になじめない、周囲の子どもたちの輪に入っていけない、浮いてしまう。そういうことが起きるのは、仕方が無いことです。あなたが悪いのではありません。僕だってそうでした。

今、その集団に属し続けることが健康を害するほどに苦痛であるなら、それは逃げるべきです。体調や健康を犠牲にしてまで所属する価値のあるものではありません。そして、これはきつい言い方になってしまいますが、集団への適応が一朝一夕に上手くいくケースはあまりありません。中学生の群れの中に発達障害のある人が上手く溶け込むテクニックは、僕がこのブログで書いている社会人向けのテクニックより遥かに難度が高いです。そんな難しいものを言語化するのは不可能です。僕だってそこから逃げて逃げて逃げてこの年齢まできた人です。

大人の世界はそれなりにルールがあったり、あるいは常識などがありますが、子どもの世界というのはもっとあらゆるものが不可分で、混沌としています。これは信じて欲しいのですが、あなたは今人生で一番辛い場所にいます。これから年齢が上がっていくにつれ、少しずつ、少しずつ確実に楽になってはいきます。(もちろん、別種の辛さは出現してきますが)「ある程度は仕方の無いことだ」という健全な諦めを持つことを薦めます。

しかし、友人を作ったりコミュニティの中に入ったりすることを諦める必要は全くありません。中学生だと選択肢はそれほど多くありませんが、習い事や(もし得意なら)スポーツ、あるいは趣味の同好会など、よく調べてみるとあなたの地域にもそういうものは存在するはずです。あるいは、親御さんがお金を出してくれるなら「塾」なんてのもいいと思います。僕は肌に合わないので参加したことはありませんが、ボランティア団体なんてのもあるかもしれません。そういうところに飛び込んでみるのも手です。微妙だったらバックレれればいいだけです。気が楽でしょう?

僕は中学生から20歳くらいまで、インターネットで集まった同好会で詩や小説を書いて同人誌(オタク界の言葉ではない同人誌というものもあるんですよ)を作ったりしていました。あと、部活にも居場所がありましたね。市の体育館の柔道教室に通って、そこでも友達を作ってました。高校になってもやはり文章を書くサークルみたいなものに参加していました。あと、高校生になるとアルバイトなんかも出来るようになります。居場所探しの難度は大人になるにつれどんどん下がっていきます。あなたはいずれ、自分ひとりでどこにでも行けるようになるんです。

インターネットの時代はその辺がとてもいいです。あなたの好きなものが好きな人が集まっている場所を探すのは容易でしょう。中学生だと「インターネットのお友達」というのは眉を顰められるかもしれませんが(僕らの頃はそうだったけど、今は違うのかな?)そういうところだって立派な居場所です。おじさんの友達だって、いまやインターネットで出会った人ばかりです。ただし、中学生というのはまだ子どもですので、くれぐれも悪い大人には気をつけてください。インターネットには悪い大人もたくさんいます。

あなたの世界は、間違いなく現在が人生で一番狭いです。でも、これから先大人になるにつれ、世界はどんどん広がっていきます。そして、インターネットはその手助けを強力にしてくれます。あなたの居場所は、この世界のどこかに必ずあります。それは僕も太鼓判を押します。僕の居場所だって、探せばそれなりにありました。

大丈夫です。今はまだ若すぎて、学校という檻の外側が想像できないだけです。世界はどこまでも広がっています。楽しい人たちはたくさんいます。(もちろん、楽しくない人たちもたくさんいます)あなたはあなたにふさわしい場所に辿り着く権利があるんです。それだけは忘れないでください。

このブログをよく読んでくれたということで、ありがとうございます。中学生の社会においてこのブログの内容がどれくらい役に立つかは自信が持てませんが、参考になればなによりです。でも、たかが中学校に適応なんかできなくたっていいんです。そんなもん、本当にどうでもいいんです。あなたが健やかに望む未来に向かっていければ、全てはOKです。何の問題もありません。学校という社会に適応しようとする努力はそれはそれで大事なものだとは思いますが、そういうことも忘れないでください。

 

辛いコミュニティからは、逃げていい

僕が、あなたに伝えたいことは最終的にこれだけです。小学校、中学校、高校というのは実に逃げ出しにくいコミュニティです。なにせ、その外側を全く知らないのですから、そこから脱落したら人生が終わってしまう。そんな気さえするかもしれません。

もちろん、レールから降りることにはリスクがあります。しかし、リスクを理解して自分の望む未来に向かって行動が出来るなら、何も恐れる必要はありません。また、高校生になり、大学生になり、あるいは社会人になるとその辺はどんどん自由になります。職場を辞めるのは大人にとっても怖いことではありますが、それでも中学校に通うのを止める決断ほど怖いことではありません。

ここで一つコツをお伝えします。「コミュニティから逃げやすい場所、選択肢がたくさんある場所」を可能な限り選ぶようにしてください。例えば、高校は可能なら単位制がいいでしょうし(単位制高校は基本的にクラスなどの枠が少ないと聞きます)あるいは可能な限り自由な校風のところが良いでしょう、大学はなるべく大きい大学、授業の選択肢やサークルの選択肢がたくさんあるところがいいでしょう。僕もこの選択を間違って大学を一つ辞めていますので、ここは将来の進路を選ぶ際に重視しておいて損はないと思います。

もし、あなたが「中学校に通うのはリスクを踏まえても限界だ」という選択をするなら、それはとても正しい選択です。もし、親御さんがガタガタぬかすようなら、あなたが「中学校に通わない代わりに自分でやると決めたこと」を説明してあげてください。このブログを見せてやる・・・のはどうかな、僕なんせ借金玉だから・・・。まぁ、とりあえずそれもアリです。使えるもんは全部使いましょう。

ただし、勉強はする。あなたが大学に行かない、という選択を選ぶにせよ、とにかく勉強はしてください。学校に通う以上の質の学習を自力で行えるところまで、なんとか頑張ってください。どのような選択肢をとるにせよ、そこだけはしっかりやりましょう。何回も言うけど、くれぐれも健康状態と相談しながらね!

 

 死ぬくらいなら全部投げ出した方がいいよ

さて、最後です。いただいた連絡の中に死にたいという気持ちが吐露されていたことについてです。これは嘘じゃないんですけど、僕の中学校高校時代は死にたい気持ちとの果てしない戦いでした。9:1くらいで負けていたので、何度となく自殺未遂をやりました。薬をザラザラ飲んで救急車で運ばれたことも複数回あります。そんな人間が「死んだらだめ」という話をするのもなんですが、死んだらだめです。

というのもですね、僕はもう31歳のおっさんであなたは中学2年生ですから、僕はあなたの2倍以上生きてるわけですけど。その若さで死ぬのは流石にもったいないんですよ。これは本当の話ですが、大人は結構楽しいです。僕は中学生の頃より31歳の今の方が100倍楽しいです。行きたいと思ったら、タイでもパプワニューギニアでもどこでも行けます。もう嫌だと思ったら仕事だって辞められます。気に入らない奴とは二度と連絡しないだけで縁が切れます。少なくとも、中学生の頃よりは100倍楽です。あの逃げ場のない閉塞感が永遠に続くわけではないということです。

もし、あなたが本当に「死ぬ」という決断の前に立ってしまうことがあった時は、その前に「全部投げ捨てる」ということを考えてください。学校も、人間関係も何もかも放棄して休んだっていいんですよ。そして、世界に絶望するのはまだ早いです。あと最低でも20年くらい考えていいと思います。

中学生の間に接することが出来る大人なんて、せいぜいが親と教師、それと少数の知人程度だと思いますが、大人ってのは実のところ本当にいっぱいいて、色んな奴がいます。僕の周りにも大変色んな奴がいて、それぞれ中々しんどかったりはするものの、なんとなく楽しそうにやってます。中学校に馴染めなかった奴らが「中学校なんて本当にクソだ」ということでわかりあってることなんてザラにあります。

大人になることには期待を持っていいです。あなたは今一番辛い場所にいるんです。周囲が成長し、あなたも発達すれば少しずつ楽になっていきます。そして、選択肢はどんどん増えていきます。それだけは忘れないでください。死ぬのは、その期待が破れてからでもまったく遅くありません。

 

おまけ、やりたいこともやろう

ついに八千字を越えてしまって、本当に長くてあれなんですが、もう一つだけ言わせてください。あなたの「好きなこと」は何かありませんか。僕は人生を通じて、本を読むことと文章を書くことがとても好きです。そして、それをずっとやってきました。それは、自分にとってずっと心の支えでしたし、また多くの人と引き合わせてくれたり、未来の可能性を広げてくれたりするドアでもありました。このブログももちろんそうです。

何でもいいです、あなたが心から楽しいと思えること、やりたいと思えること。それを楽しみ続けることを忘れないでください。もし、まだ見つからないなら探してみてください。世界はそういうところから広がっていきます。

あなたの世界が今、閉じているのはそういう時期だからです。発達障害のある子どもの多くが、そのような中学生時代をすごします。僕もそうでした。でも、それが永遠に続くわけではない。それだけは信じてください。未来に向かう意思と確かな努力さえあれば、少なくとも今よりずっと楽しい場所に必ず辿り着けます。この先にも苦労はたくさんあるでしょうが、それはそれとして人生はずっと楽しく楽になります。そして、同じような経験をして、同じような気持ちを持った人ともたくさん巡り合えます。

それだけは信じて欲しいと思います。

陳腐なことを言いますが、あなたはまだとても若く、可能性に満ちている。その可能性を掴むには努力と苦労が必要になることも確かですが、それでもあなたは絶望するには早すぎます。前菜が不味かったからといって、メインディッシュが不味いとは限りません。デザートまで食ってから席を立っても遅くはないんです。

31歳のおっさんも死なずに頑張りますので、中学校2年生のあなたも死なないでください。やっていきましょう。

発達障害は個性なのか、それとも単なる障害なのか

多動力

堀江さんが「多動力」という本を出すみたいですね。ガンガン動く多動最高、のような内容であるようで、流石ホリエモンだなぁと思いながら眺めていたんですが、ホリエモンの下位互換のような人生を送っている僕としてもなんというか思うところがあります。というか、堀江さんやっぱり多動傾向あったんですね。まぁ、そうだろうなーという納得感はありますけど。

僕は堀江さんがわりと好きです。性格から体型から衝動的な物言い、多動的な動きまで共感がありますし、流石上位バージョンは違うと思います。しかし、僕自身が多動や衝動性の強さという発達障害のあれで得をしてきたかなぁと考えてみると、大変微妙なところで。

 目次が出てますが、わかるっちゃわかる。という感じですね。そういうところは確かにあるかもしれない。多動傾向の全く無い人が参考にするのはすごく良いと思います。こういう考え方を取り込むことは実際役に立つ場合も多いでしょう。散発的に多くの物事に手をつけ、衝動的に何かを始める。そのうち一つが当たればOK、そういう戦略は十分にありえる。

その一方で、多動ガチ勢の多動がこのように役立てられるかというと、それはとても難しいでしょう。というのも、堀江さんの多動はコントローラブルな多動で、ガチ勢の多動はコントロールが効かないからです。堀江さんは東京大学に入ってますが、東京大学に入れるほどの中長期的集中力と多動的な行動力が両立すればそれは間違いなく強い。堀江さんの異能は、多動性そのものではなく、多動性と集中性という相反する能力が同居していることだと思います。でも、それが出来る人はそんなにいないんですね。多動力が大事という話には一理がありますが、それは制御された多動性のお話で発達障害における多動性という概念とは別物でしょうね。

この本はおそらく、多動傾向の無い人が読んで人生に多動傾向を取り入れる、そのような場合に一番役に立つ本だと思います。しかし、最初から多動傾向を強く持った我々にとっての自己肯定の参考にはあまりならないでしょう。(もちろん、発達障害者向けに書かれた本ではないので当たり前なんですが)

 

発達障害特性は役に立つのか?

神話的な発達障害者、あるいは発達障害者であったとされる人は大体、「発達障害特性を生かして成功した」という逸話が形作られています。そういうわけで、「発達障害というのは一つの個性である」とか「異能の源泉である」みたいな言い回しがされるわけです。このような言説は非常に悩ましい存在です。発達障害が肯定的に解釈されるのは耳に心地が良いですし、時には希望になりえます。その一方で、では実際に多くの発達障害者にとってその特性が役立てられるものかというと、それもまたとても難しい。

僕は成功者とは到底いえませんが、発達障害者としての特性、主に多動性と衝動性が人生の役に立っているかと尋ねられれば、「役に立ったこともあった。現在の自分の肯定的に評価出来る部分に発達障害特性が全く寄与していないと言えば嘘になる」と答えます。僕は衝動的に色んなことをやって、その度に大失敗したりあるいはささやかな成功を得たりして生きてきましたが、この時に蓄えた経験が今文章として商品になっているわけですし。確かに、全く役に立ってないと言ったら嘘なんですよね。

ツイッターは衝動性をぶちまけ、多動的な思考を放出するには大変適したメディアで、僕の文章が現在これだけの数の人に読んでいただいているのはツイッターというメディアのおかげという点が大きいのですが、ツイッターでこれだけの読者に恵まれたのは間違いなく多動特性が寄与しているとは思います。

その一方で、多動性と衝動性によって失われたものについて考えると吐き気がします。もう少し集中力が長く続く人間だったら、もう少し長期間同じことに没頭できる能力があったら、もう少し考えて動くことが出来たら、興味のないことにでもパフォーマンスを出すことさえ出来れば、そういう忸怩たる思いの上に、「発達障害特性が全く役に立たなかったとは言えない」という表現があります。

本音を言うと、「発達障害はただの障害、役に立つことなんか無い」と言い切りたいんですよ。でも、結局僕はこの発達障害を抱えた自分で人生をやってくるしかなかったので、それを言い切っても嘘にはなります。たとえばこういうことです、穴を掘る時はスコップが欲しい、欲を言えばパワーショベルがあれば尚良い。でも、僕に与えられた道具はツルハシだった。そういう感じです。そりゃあ、固い地盤に遭遇してそこをカチ割る時には役に立ったこともあるけど、掘るには全体を通して不便だったよ。そういう感じですね。

 

人生に勝てば発達障害は障害ではなくなる、発達障害者の残酷な分断

発達障害という問題の一番のあれは、ここだと思います。人生に成功し、苦難から逃れることさえ出来れば、発達障害も含めた全てを肯定されることが出来ます。発達障害を治す一番手っ取り早い方法は大金を持つことです。3億あれば、よほど強烈な発達障害特性を持っていない限り発達障害者としての問題を気にすることなく生きていくことが出来るでしょう。また、それだけ稼ぐことが出来たならば自己肯定感も相当強くもてるので、「発達障害が役に立った、発達障害は個性」という自己認識を持つことも可能でしょう。実際それは事実でもあるでしょうし(もちろん、ある側面から見た一つの事実、という留保はつきますが)。

では、発達障害特性を生かして人生に勝つことは可能か、という設問にすると「たまにそういう人もいる」としか答えられないんですね。これは悲しいジレンマです。発達障害の最良の処方箋は人生に勝利し資産や社会的地位を築くことですが、それを達成するための最大の障壁は発達障害そのものです。

発達障害の定義に関しては医学的な知見とその専門性を十二分に尊重します、という前提を置いた上ですが、社会適応が出来ないという点を重視すべきだと僕は考えております。発達障害と十分に定義し得る特性を有していたとしても、社会適応が十分になされていて本人が問題を感じていないなら、それは「そういう人」ですからね。

発達障害者だって成功している奴はいるだろう、個性なんだろう、じゃあそれを生かして成功しろよ」という言葉が投げつけられることは結構あります。これは多くの発達障害者が「あれがキツい」と言いますね。でも、100%間違っているわけでもないから反論もしにくい。「おまえは発達障害の問題と無関係に無能なんだよ、発達障害なんてただの言い訳だ」で話を閉じられて、実家に火をつけてやろうと思ったことは僕にもあります。

 その一方で、成功した発達障害者が「発達障害は個性であり、自らの成功の源泉である」と語ることも否定は出来ないんですよ。実際そうなんでしょうし。このようにして発達障害者は分断されます。発達障害特性をどのように捉えているかですら、発達障害者の間でも一枚板ではないわけですよ。人生が上手く行ってる人にとっては個性でも、人生が苦難の連続である人にとっては忌むべき障壁です。世の中には実に様々な環境がありますので、もし仮に全く同様の能力と発達障害特性を持った人間が二人いたとしても、その二人の発達障害への認知が全くの別物になることだってありえるでしょう。

発達障害は、社会のありようや適応と分断して純粋に器質的な障害だと考えることがとても難しい概念だということでしょうね。

 

発達障害特性を活かす

発達障害当事者、特に人生に苦難を抱えている人ほどこの言い回しは不愉快だろうと思います。活きることなんかねえよ、単なる障害だよ。そう吐き捨てたくなることも多いと思います。この話題は突き詰めると、発達障害者(有能)と発達障害者(無能)みたいな対立さえ生み出します。最悪ですね。

発達障害者は起業しろ、組織に囚われなければ上手くいく」みたいな言説がありまして、僕はまぁ実際起業してみたわけなんですが。確かに、成功失敗を度外視してみれば(発達障害者がやろうが定型発達者がやろうが起業の成功率なんてクソ低いですし)サラリーマン時代よりはずっと良かったです。でも、サラリーマンより遥かに勝率計算のしにくい選択ですしリスクも大きい、住宅ローンも組めなくなります。

環境をドラスティックに変化させて発達障害を障害ではなくしちまえ、というのは発想としてはもちろんありえますし、実際それで上手くいくケースもあるとは思いますが、誰でも出来る選択ではありません。その選択をした結果発達障害特性による問題は確かに減少した、でもそれとは全く無関係に大失敗だった。そういうこともあります。

結論としてはこうです、発達障害特性を活かす努力をするのも、あるいは純粋な欠点として認識してその欠点を最小化する努力のもどちらもありです。どちらか片方ではなく、両方あり得るものとして考えるべきでしょう。ただ、安易に「発達障害を個性として活かせ」と僕は言いません。活かせることもあれば全く活かせないことももちろんあります。環境次第では克服以外の努力の方向性が皆無ということもあり得るでしょう。

ただ、環境を工夫するなどして発達障害特性を問題ではなくしてしまおうと考えたとしても、あるいは発達障害特性を単なる欠点と認識して克服しようと努めるにせよ、まずやることは一緒です。自分の特性を把握する、自己モニタリングを徹底する、その上でそれを他者に理解可能な形で言語化する。これに尽きます。

問題を認識しないまま対策を打つのは不可能ですし、なにはともあれそれをやるしかない。そして、自己をモニタリングして特性を把握するということは、即ち社会やあなたの所属組織、あるいは与えられた環境があなたに何を求めていているのかを把握するということでもあります。自己を把握することは社会を把握することでもあるわけです。

発達障害特性を活かす、あるいは克服する。どちらの方針でも構わないし、両立だってもちろんします。この部分は大変センシティブで、インターネットを眺めていてもしょっちゅう発達障害当事者同士の論争が起きているところですが、どっちにせよやることは一緒です。選べる選択肢を採用しましょう。人生はいつだってそれしかありません。

そういうわけで、発達障害が個性なのか障害なのかという話は「社会との適応次第」という結論になります。発達障害というのは、脳の器質的な障害であると同時に、極めて社会的な概念である。そういうことですね。でも、発達障害当事者がやるべきことはいつだって同じです。自己モニタリングと障害特性の言語化。ここからしか始まりません。発達障害は一人ひとり症状に差異があります。スペクトラムと呼ばれる所以です。まずは、とりあえずそれを把握してみましょう。これが大変難しく、現実的には一生続けることになります。でも、それをやるしかありません。その上で、あなたの置かれた環境とあなたの特性を踏まえた悔いのない決断を祈ります。

やっていきましょう、いつだってやっていくしかない。

最近の借金玉、書かせていただいた記事のご紹介

最近は色々書かせていただいてます

そういうわけで、最近書かせていただいた記事のご紹介です。ニューアキンドセンター様でまた記事を書かせていただきました。起業爆死マンなのであんまりノウハウとかは書けないのですが、今日は珍しくノウハウもので出資者を得るというところまでのお話です。これが災厄の始まりだった・・・みたいなモノローグをつけることもできます。

new.akind.center

はい。何かを始める能力と何かを成功させる能力は別物だということがよくわかりますが、なんにしても始まらなければ成功もしないという点はあります。(もちろん始めないという行動には「失敗しない」というメリットもあります)

出資者をどのように得るかというお話はつまるところ恋愛と同じで、有用なアドバイスとしては「試行回数増やせ」と「成功率上げろ」の二点しかなく、やっていきましょうということになります。

出資者は馬主にして騎手であり馬券を買うお客さんでもあります。僕は起業の主役って起業家というよりはどっちかといえば出資者だと思うんですが、出資者の側からの起業の話というのはなかなかコンテンツとして存在せず寂しいですね。出資した会社が百発百中で成功する出資者というのはそんなにいないはずなので、起業に関して多くの失敗知見を持っているのは出資者の皆さんだと思うんですが。もうちょっとインターネットに出てきてくれてもいいんですけど。まぁ、そういうのイヤだから出資者をやるわけですよね・・・。

コツはひとつで、自分に無限の自信を持つことです。少なくとも持っているように見せかけることです。稀に出てくる「そりゃこんなの誰がどう見ても成功するよ」というタイプの創業計画書を書けるのなら別ですが、初創業でそんなもん書ける人は稀です。それができないなら後は勢いと試行回数ですね。頑張りましょう。僕もそのうちまた参戦したいです。僕がまだ生きているのも偉大なる出資者のおかげであり、恩返しを頑張りたいですね。大丈夫です、次はうまくやります。

www.onecareer.jp

それと、ワンキャリア様でも書かせていただいています。こちらは就職活動のお話ですね。見も蓋もない話ですが、やっていきましょうという気持ちを込めました。頑張れ就職活動生、そろそろキツい時期に入ってきたと思うけど、まだまだここからですよ。

 

最近も色々ありますが僕は元気です

色々生活が変化してきたり、鬱に突入したりと色々ありましたが僕はおおむね元気です。皆様はいかがでしょうか。春から初夏へと突入していくこのシーズンは、なんとなく調子がいい人が多いかもしれませんね。僕はこの時期から躁転するのが例年のお約束です。躁は鬱より大分やばいので、皆さんも何卒ご注意ください。

調子に乗って服薬を全絶ちするなどのやらかしを僕はこの時期にわりと起こして来ました。この後梅雨があるので少し抑えられるのですが、梅雨明けから躁アクセルが全開になって大惨事というテンプレに乗っからないように注意していきたいです。

発達障害の二次障害として躁鬱ないし鬱はお約束ともいえます。皆さま、何卒ご注意ください。妙に調子いいな、これはイケるな、と思ったときこそ落ち着いてブレーキです。この夏もやっていきましょう。

 

 

発達障害の子ども、というか僕は親にどうして欲しかったのかの話。

ちょっと今日は重たい話です

はい、まぁこういう話題も書こうかなーって思うんですよ。で、僕はといえばまぁ親との関係は「悪い」の一語に尽きるわけですけど、まぁ最近になって僕も結婚とかそういうあれが出てきたし社会に出て大分経ったし、まぁそれなりの距離感を保って人間同士うまいことやっていきましょうね、そういう空気が出てきまして。

で、僕の親は多分母親が(自覚のない)発達障害、それもADHDASD両方の傾向を僕以上に強く持ってるなぁという感じがするんですが、「あんた発達障害だよ」って言ったところでもう六十代にも入ろうとする人がそうそう認知できるわけもなく、普通にそのままになってます。強烈な躁鬱も持ってる人なのでまぁキツそうだなぁと思っているわけですが、これも多分親子二代で二次障害やってるんだろうなぁという悲しいあれですね。

で、僕の父親はほぼ完全な定型発達者でしかも極めて社交的な人で、「発達障害?なんかよくわからんけど気持ちでやっていけ」という性格です。わりとバランスの良い能力を持っており、かなり仕事も出来る方だったと思います。で、僕は弟が一人いて(現在は作家をやっててわりと売れています)僕も弟もかなり強く発達障害傾向があるんですが、この人から見て我々兄弟は本当に「わからない」存在だったんだろうなぁという気がします。そういうわけで、僕は18歳から実家に寄り付かず、31歳まで来てしまいました。家庭という概念が人によっては地獄と大体同義であるあれは僕が今更書かなくても、インターネットを代表するコンテンツかと思いますので別にいいですね。定型発達者の親と発達障害者の子が同じ家で波風なく暮らすのはほとんど不可能とさえ思います、正直なところ。

現実的なところを言うと、距離をとればとるほど関係が改善されるという現象が確認されました。まぁ、僕も悪かった。荒れ放題に荒れたし各所からの呼び出しなど本当にご迷惑はおかけしました。今後とも適度な距離感でやっていきましょう。一定以上距離を縮められたら全ての連絡を遮断します。

んでまぁ、その辺の細かい話はいいとして(親子関係は相当悪かったですと言いたいだけのセンテンスです)じゃあ、実際どういう風に親が接してくれたらよかったかなーとは思うんですよね。

 

片付いた家が見たかった

最近ミニマリストって流行ってるじゃないですか。はてなブログ界隈でも一大勢力を形成している節があります。僕も、わりとミニマリストです。所有しているものの中で量があっても構わないと思っているのは本だけで、それ以外個人的な所有物はほとんどないです。同居人が物持ちなので自宅にはそこそこ物がありますが、その中で僕の所有物品はいいとこ1割というところでしょうか。学校の卒業アルバムの類も全部捨てましたし、とにかく持ち物は少なければ少ないほど良いと思ってます。

そういうわけで、発達障害者は一部の例外(病的に片付いてないと気が済まない派も存在はする)を除いて大体「家の片付け」がド下手です。というのも、僕自身実家を出て「自宅作業の効率上げないとヤバイな」と感じ、収納や整理術の本を読むまで「片付いた部屋」って見たことがなかったんです。床に物が乱雑に散ってるのは当たり前で、ストレスにはなってたんですけど、それが日常だったのでわからなかったんですね。北海道の田舎出身なので割りと広いところに住んでましたので、家は汚宅とまではいかなかったのですが、整理整頓という概念がなかった。父の部屋だけは片付いてましたね。多分、彼なりの諦めがあったんでしょう。

僕が、「発達障害者の中ではわりとマシ」という程度に部屋を片付けられるようになったのは、ルームシェアの経験からです。僕は18から友人と部屋を借りて暮らしていたのですが、同居人どもも大体曖昧な暮らしをしている連中で、居候がガンガン増える、自宅に帰ったら知らない奴がいるなどの日常が続き、「居間はまぁしょうがない。しかし、自室だけはキチっとしとかないと生活の全てが破綻するな」というあれがあれしまして、頑張って整理の勉強をしました。

で、それを発達障害がある自分向けにカスタマイズし続けて現在に至ってるわけですが、これを親が教えてくれたらどれほど人生が楽だったかと思います。「物を探す能力が異常に低い、一回物に紛れたら二度と必要なものが見つからない」というスペックは発達障害がある人にわりとありがちだと思うんですが、これの解決策としてのミニマリストは大変アリです。

「生活というのはこのように保つものである」という概念を教えて欲しかったですね。なんだかんだ、18歳から勉強を始めて現在でも完全に身についているとは言い難く、幼少期からこれを学べていたらなぁ・・・とは本当に思います。

 

叱り方に一貫性が欲しい

これが僕と父との間柄の中で一番やばかった点ですね。というのもですね、僕は未だに父がわかりません。彼が何に喜び何に怒る人間なのか、本当にわかんないです。僕の幼少期の記憶をさかのぼってみると、「ボタンの押し方を間違えると爆発するブラックボックス、ただし爆発の法則に一貫性はない」という恐怖感が非常に強く残っています。

しかしまぁ、これわかるっちゃわかるんですよ。人間ですから、イラついている日もあるし疲れている日もある。そこに発達障害小僧の意味のわかんねえムーヴを見せられたらぶっ殺すぞガキとはなるでしょう。まぁ、それはそれでしゃーないと思います。ここを読んでる人の中にはお子さんが発達障害という方もいらっしゃると思いますが、発達障害のお子さんとの関係が完全に破綻しても、「まぁ、生きてりゃいいか」くらいに構える必要は正味なところあると思います。

「これをやると怒られる」というのが本当にわかんなかったですね。僕が最も「空気を読む」という能力を求められたのは、父親を暴力で制圧出来るようになるまでの幼少期だと思います。あ、お子さんを物理暴力で制圧してる親御さん、本当にそれは避けた方がいいですよ。子供って成長しますから、必ずやったことやり返されますよ。お子さんを殴るというのは、お子さんがあなたを殴ることに対する免罪符を与えるのと完全に同義です。合理的に考えてやめた方がいいと思います。あなたは老います。

どういう理屈で叱られているのか、それが世間一般の概念として妥当なものなのかはとりあえずいいです、何に怒り何をすると叱る人なのか説明して欲しかったと思いますね。怒っているのは見ればわかる、問題は何に怒っているのか。「真面目にやれ」「言うことを聞け」「親を敬え」ではピンと来ないし、殴っとけばとりあえず短期的には落ち着きますけど、結局学習したのは「動かなくなるまで抑え込んで殴れば俺の方が強い」という結論になっちゃいましたし。こういうのはよくないと思います。「父親を制圧するために柔道を本気出して習う」という選択を我が子がするの怖くないですか?僕はこれがガチで怖いので子供を持つ予定はありません。殺される気しかしない。自分が父親に向けた憎悪、今思い出しても怖いですもん。まじりっけなしの殺意でした。あれほど強い殺意を人生で持ったことは他にないです。

「いや、叱られたら叱られた理由くらいわかれよ!」という怒りは、社会に出てからよくわかりました。社会に出ると誰も親切に教えてくれないし、ムーヴをトチると食えなくなりますからこの恐怖感はわかった。しかし、家族というのは同じ家に暮らし続ける相互に逃げられない檻なわけですよ。言葉を尽くして欲しい、そして一貫性が欲しい。まず、Aという叱られた理由があり、Aが叱られる理由に相当するのはBという理由からであるという点の説明が欲しかった。

僕は未だに「社会に怒られる」という概念を極めて「父親」という概念に近いものとして認知しており、恐怖感と「絶対にコケにしてやる」という憎悪を併せ持っています。突然よくわからない理由で怒る点がまったく同じだと思います。しかし、発達障害児に「空気を読む」というスキルは大変厳しい。空気を読むということを覚えさせるためにも、どのような機序で怒られが発生しているのかを教えてあげて欲しいですね。そうすれば憎まなくて済んだかもしれない。

 

「普通でない」選択肢を許容して欲しかった

僕が未だに後悔していることのひとつに「何故高校を中退しなかったのか」という点があります。学習するだけなら高校に通う必要は一切なかったし、むしろそうするべきだった。僕の幼少期から青年期にかけては、「普通にやらなきゃヤバイ気がする」と「いや、普通じゃなくても選択が合理的でさえあれば想定された通りの結果を出せる」との間での葛藤でした。

発達障害児は基本的に、「普通にやる」ということに関してどこかのタイミングで破綻すると思います。僕は小学校時点でマトモに通えてませんでしたし、また、親御さん自体が「我が子は普通ではない」ということを受け止めるのもかなり大変だと思います。しかしまぁ、これは残念なことですけど普通じゃないんですよね。普通のことが普通に出来ない。殴ったり電流流したりすれば出来るようになるかといえば、まぁ出来ないわけですよ。

しかし、一般的なルートでなければ走れる道もあったりします。僕も、「授業を受ける」ということに関しては相当厳しかったですが、自力で学習することは出来ましたし、興味のあることに関してはガンガン学習出来ました。重要なのは、そのスキルを上手いことツギハギして何とか社会適応することなんですね。

もちろん、「いや、むしろ型にハメて普通にするべきだろ」ってご意見はあると思いますが、僕の経験を踏まえると難しいと思います。それが出来ないから発達障害なわけで。例えば、「大学に行く」「就職して自活する」などの最終的なゴールを見据えて、そこに辿り着くまでの道のりが一般的ではなくても問題ないという姿勢で接してくれたら本当にありがたかったなぁ・・・と思います。

「毎日学校に通って周囲と同じことをし続ける、そしてその中でも上位の結果を出し続けることが唯一の生存の道である」という脅迫観念の中でぶっ壊れかけている発達障害児は多いと思います。でもこれ、どの道無理なんでやめた方がいいです。鬱などの二次障害を呼び込むだけです。それよりは、18歳もしくは20歳時点くらいでの目標を早期に設定して、とりあえずそれを目指す、ただしその過程は合理的でさえあればいい、一般的じゃなくていいという構えがいいと思います。

「人並みにやれなければ終わるぞ」という圧力、あれがキツい。僅かに残った自己承認すら根こそぎもっていく破壊力があります。でも、僕は人並みにやらない方がむしろ効率よく人生をやれましたし、どの道やれやしないんだからそんなとこで悩むだけムダです。「普通じゃない」選択肢を許容してあげる、一般的なルートだけが唯一の正解ではないということを教えて欲しかったですね。

 

不安定さを許容して欲しい

「なんで出来ないんだ!」「なんでやらないんだ!」、これは本当に言われました。昨日できたことが今日は出来ない、昨日と今日で別人のように出力が違う。これは30代になった現在の僕も克服しきれていません。しかし、一生懸命はやってるんですよね・・・。もちろん、わかります「意味がわからない」というあれは本当にわかる。しかし、その意味のわからなさが発達障害なわけです。

テンプレにハメて「毎日これだけやれ」という形にする、また同時にそれを過去一番良かった数字に合わせて強要する。これが最悪です。毎日過集中を出すのは不可能です。やらなきゃ電流が流れる椅子に縛り付けても出来ません。本当に出来ないので、叱咤や暴力は学習性無力感と鬱を呼び込むだけです。本当にやめた方がいいです。リアルに死にます。

また、逆に狂ったように没頭してるときはほっといて欲しかったですね。もちろん、勉強だけしていればいいというわけではなく、あれをやれこれをやれ食事を摂れ風呂を掃除しろ、色々あるとは思いますが、発達障害児が何かに没頭している時は本当に限られたボーナスタイムを消費している瞬間です。ちょっとストップしたらその場で全てが終わってしまいます。何時から何時まで勉強をする、みたいなのが不可能な分こっちで帳尻を合わせているわけです。頼むから止めないで欲しかったですね。

発達障害児は、12時間後にちょっと嫌なイベントがある程度の心理的負荷で何も出来なくなったりします。これは僕が塾で勉強を教えていたときに発達障害の子を見てもわりとそうでした。まずその不安から気持ちをそらしてやらないと、1ミリも話が入らないわけです。叱る、追い詰めるなどは集中の到来を妨害するだけです。

もちろん、我が子に「普通になって欲しい」という切なる願いは子どものいない僕でも想像は出来ます。しかし、無理なんですね。「勉強の習慣をつけましょう、一日n時間机に向かわせましょう」みたいなのは本当に難しい。そういうわけで、学習性無力感と鬱のような精神疾患を防止する、限りある集中の時間を大事にする、その辺が欲しかったなぁと思います。

なお、痛みや恐怖による矯正を継続的に試みた場合ですが、僕は「刃物などの場合殺さないと終わらないので合理的ではない、下手なことをやると報復される。常時使える肉体的暴力の習得こそ急務だ、現在与えられている恐怖感をそのまま返せる」という判断をしましたので大きな問題は起こりませんでしたが、場合によっては普通に起こると思います。物理非物理を問わず、本当に暴力はやめましょう。

 

 

ほどよく諦めて欲しい

つまるところ、これに尽きます。。下手に追い込んでも悪い結果しか出ないわけですから、ほどよく諦めるというのはわりと最善だと思います。しかし、発達障害児というのはなんというか非常にマダラなところがあるといいますか、突然テストで学年一桁順位を取った後、「テストには出たけど20分で全てが終わって学校から逃げ出した」みたいなことをやります。(やりました)

親に、「わからない」とよく言われました。「やれば出来るんだからやれよ!やれないよりやれた方がおまえだっていいだろう!頼むから常に真面目にやってくれよ!」とは言われました。でも、「いつだって僕は大真面目にやってるよ!大真面目にやってもこれなんだよ!自分でもわかんねーよ!」というところで話は終わりでしたね。その頃は発達障害という概念も知りませんでした。

こうしてみると、ハチャメチャなガキに親が振り回されているという構図に見えると思うんですが、まぁその通りです。その一方で僕も努力はしたんです。「ふつうの子ども」になって「普通にやる」ことが出来るならそれが一番だし、なんとかやろうとした。その結果やってきたのは躁鬱による入退院の繰り返しと自殺未遂祭りでしたけど。「僕に普通は無理だ、諦めよう」と思ってから圧倒的に人生が楽になりました。

いいじゃないですか、子どもなんて最悪成人してるなら追い出せばいいわけです。二十歳まで面倒みたら後は知らねえでぜんぜん構わないと思いますよ。世間もそんなに怒らないですし。追い込んでもぶっ壊れるだけですから、その辺うまいこと諦めてください。残念、ツモが悪かった。それでいいじゃないですか。子どもなんてガチャみたいなもんですよ。死ぬところまで追い込めばチャラに出来るという発想もなくはないですが、色々怖いのでなるべくやめましょう。

そういうわけで、何をやれば良くなるのかは正直わかりません。でも、何をやるのが最悪なのかはわかります。「最善」を求めすぎると親子でぶっ壊れると思いますので、とにかく最悪だけは避ける。それでいいじゃないですか。

ほどよく諦め、それでも希望は捨てない。こういう精神状態って僕も30歳を過ぎてから習得したのでとても難しいと思いますし、我が子のこととなったら冷静でいるというのもかなり難しいことだと思いますが、それでもそれが現状一番マシです。後は、本やら僕のブログやらを読んだりして「こういうアプローチはどうかな?」みたいなことを繰り返して行く他ないと思います。

こうして書いてみると、起業失敗エントリ以上に僕は親子関係というものを消化できていないことがよくわかります。過去一番まとまりのないエントリですね。30歳を越えてこれなんだからイヤになります。でもまぁ、こんな感じです。失敗例としてご参考にしていただければ。生きることが第一で多くを求めすぎない。それがベストだと思います。

まとまりのない話で恐縮ですが、やっていきましょう。

 

 

 

5月病とその対策、もう一度歩き出すための話

GW終わりましたね

僕にはゴールデンなウィークはなかったですが、会社勤めの皆さんは十分に楽しめましたか?のんびり出来ましたか。あなたの頭から焦燥感が消えたタイミングが1秒でもあったなら、それはとてもよかったと思います。

さて、これからどうしましょう。新卒で入社した後のGWというのは、ちょっとしたロスタイムみたいなものだと思います。4月大変だったろ、新しい環境でも色々あった。そういうわけでちょっと休んでいいぞ。そういうタイミングです。実際のところ、このお休みが事態を悪くしていますよね。

会社に行きたい人間なんか地球にはほとんどいないわけですが、明日は月曜日です。あなたは否応なく出社しなければならない。この休みさえなければガムシャラに突き抜けられたかもしれないけれど、人間が一度立ち止まった後再び歩き出すというのはとても大変なことです。新卒ハイの魔法は切れた、酔いは醒めた。この程度の休暇では到底ぬぐい切れない二日酔いと疲労を抱えて、あなたはもう一度歩き出さなければならない。

 

5月病にならないために

五月病にならない方法は(それが出来る人にとっては)簡単です。新卒ハイをなるべく低く抑えて体力と気力の消耗を可能な限りセーブし、休暇の間もそのテンションを切らさない。これに尽きます。つまりは手遅れということです。4月をガムシャラに走り抜けてついにやってきた長期休暇です。帰省し、あるいは大学や地元の友人たちと酒を飲み交わしてすっかりリラックスした皆さんは、完全にゼロに戻ってしまった。もう一度ナップザックに荷物を詰めなおして登り始めるのは、実のところ並大抵のことではありません。

ところで僕は山登りが大嫌いで、あんなものを楽しむ人間の気持ちは全くわからないんですけど、山菜取りや渓流釣りは大好きです。ゲーム性があるからです。タラノメを追っかけたり、岩魚の濃い淵を求めて登っていく時、人はそれほど疲労を感じません。ゲームに没入しているからです。皆さんも研修を受けたり同期と親交を深めている時はそれほど疲労を感じなかったのではないですか?

それでも今日の気分は最悪ですよね。日曜の夜にこのエントリを上げる僕の性格も最悪ですが、僕にはゴールデンなウィークが無かったのでご容赦願いたいんですけど。それはともかく皆さん、あのゲームをあと数十年続けなきゃいけないんですよ。受け容れられますか?

山頂は遥かに遠く、皆さんは競い合いながら頂上を目指さなければいけない。もちろん、ある種の頂上にたどり着けるのは数百人に一人とかです。多くの人は道半ばに倒れ、あるいは下山し、それでもなんとか自分を肯定して生きていくしかない。途中で飲んだコーヒー美味しかったな、くらいの思い出が出来ればそれはむしろ幸福な事例と言えます。行軍を始めた皆さんにこれだけは伝えたい。未来はとても長く続きます。

 

クライマーズ・ハイ

僕に山の登り方を教えた人間はこのように言いました。余計なことを考えるな、急ごうとするな、一歩ずつ足を進めろ。進みすぎるな、だが休みすぎるな。そんなこと出来たら苦労ねえよって思います。相変わらず僕は登山が大嫌いでこの助言が実行できたことは一度もありません。

己を鼓舞し、獲物を求めてハイになり狂ったペースで登ったあと一歩も動けなくなる。それを繰り返して生きてきました。エンドレス五月病人生です。一定のペースでゆっくり進む、そんなことは出来ません。全速力で走るか1センチも前に進めないかどちらかしかない。「進みすぎるな、だが休みすぎるな」は掛け値なしに金言だとは思うんですが、僕はそれが出来ないわけですね。

そういうわけで、今五月病に陥っている皆さんのうち、「進みすぎるな、だが休みすぎるな」が実行出来る皆さんへのアドバイスはここで終わります。出来るならやればいい。GW明けの今回で懲りたでしょう。熱狂と酩酊の後には必ず疲労と宿酔が残ります。今回を良い経験として繰り返さないようにするといいと思います。進みすぎない、休みすぎない。テンションを切らさない。それが出来るなら本当に問題ない。これが出来る人は大体優秀です。

ただ、僕はそれが出来ない皆さんのためにこの文章を書いています。ある時突然沸く熱狂に身を任せて登る以外の進み方を知らない皆さんですよね、このブログの読者って。終わりのない五月病に生きるみなさんにはここからが大事です。

 

熱狂が尽きた時のために

僕は発達障害の二次障害として躁鬱病も患っておりまして、人生がものすごい速度で進む時期と、停滞して何もかもが停止する時期というのが人生に交互に訪れます。現在は後者の時期です。毎年、2月くらいに鬱がどん底を迎え5月辺りから回復していくのが規定路線なのですが、今年はどん底の2月から文章を書きまくったため今頃そのツケが来ているわけです。全身が重く、思考も冴えず、全てを投げ出したい気持ちで一杯です。まぁ、普通に死にたいですね。

で、我々がそういう時にどうすればいいかというと、これはもう話は簡単で熱狂を取り戻すしかないわけですよ。もう一回ゲームに没入するしかない。もちろん、鬱病などを患っている皆さんは治療が必要ですが、人生の波のようなものについては治療の余地がなく、なんとか付き合っていくしかないわけです。

でも、どうしても熱狂出来ないしゲームに没入できない時期というのはあります。何もやる気になれない、一行も書けないし一歩も動けない。会社にまるで行ける気がしない。重い五月病は割と厄介で、そのまま人生を踏み外してしまう人もわりといます。僕みたいに無限に五月病を繰り返して来た人間にとってはいつものことでも、社会人1年目の五月病が、「冗談抜きにちょっとこれやばいんじゃないか」という人もいると思います。

 

 寝るのは大体正解

さて、このブログを書いている段階で時間は21時になろうとしています。皆さん、そろそろ明日の出社が頭に引っかかって沈鬱になっているころではないでしょうか。そんな皆さんにアドバイスですが、とりあえず寝てください。睡眠薬をお持ちの方はさっさと飲んでしまいましょう。というのもですね、最悪のパターンって眠れないままスマホをイジイジして、気づいたら朝の4時みたいなあれですよね。

GW明けの月曜日にそれをやってしまったら本当にやばいですよ。今週一週間が終わると見て大体間違いありません。1日の間違いで1週間が台無しになり、1週間の間違いで1年が台無しになり、1年が台無しになる頃には全てがおしまいです。

どんな時でも「寝る」のはベターの選択肢です。例えば、あなたはどうしてもタスクに手をつけられない。でも、タスクに手をつけられないまま寝ることも出来ない。そのまま時間が経って、最悪のコンディションと残り少ない時間でタスクと向き合うことになる。こういうことはよくあります。放り出して寝てしまえば、時間はロスしたかもしれないし締め切りには間に合わなかったかもしれないけれど、少なくとも体調が最悪になることはなかったわけです。

そして、現在皆さんは明日の「出社する」というタスクが大変気がかりな状態です。ここで寝るという選択肢を選ぶのはかなり強い意志の力を要します。こういうときのために睡眠薬はあるんですが、それもない皆さんはとりあえず風呂に入る、寝巻きに着替えるなどあなたの平常通りの睡眠前の行動を取ってください。そして、可能であれば明日の準備をして靴を磨き、眠ってください。僕は基本的に「仕事の準備は前日の夜に終わらせておくのが絶対正義」という考え方を持っているんですが、今日だけはしょうがないです。やる気でないでしょうし。まぁ、とにかく寝てください。眠れなくても目を閉じてじっとしていましょう。それだけで大分マシです。

明日が憂鬱な日はとにかく寝る。これだけは覚えておいてください。これで少なくとも、憂鬱な朝に睡眠不足の彩りが加わることだけはなくなります。これだけで様々なことが相当マシになります。寝酒は今夜はなるべく控えてください。寝付く方法のオススメですが、僕は「ジャン・クリストフ」を布団で通読するというライフハックでこれをかなり解決しました。脳が「これを読み続けるのは苦痛だ、眠りたい」と思ってくれれば勝ちです。別にボイラーの説明書とかでもいいんでしょうけど、「ほどよくストーリーがあり現実を多少忘れさせてくれるが、徐々に読むのが苦痛になってくる」タイプの本がいいですね。スマホと漫画は禁止です。ドストエフスキーはツボに入ると夜が明けるので避けましょう。「悪霊」なら大丈夫かな。(個人の趣味の問題です)

 

布団で悩み込む時間は全て無駄

さて、そうはいっても布団に入ったら様々な不安、あるいは「だるい」という気持ちが襲い掛かってくることもあると思います。しかし、布団の中で現実的な事後策を考えることは絶対に推奨しません。形にならない不安が渦を巻くだけで、絶対に建設的なことなんか出てきません。布団に入ったら後は寝るだけ、考え事は布団の中ではしないというルールが圧倒的におすすめできます。どうしても考えてしまうなら、「ジャン・クリストフ」を読んでください。これは僕に文学的素養がないことの証明ですが、あれほど人間を眠たくする小説はそうそうないと思います。登場人物が覚えきれなくなっても構わず先に進んでください。脳が「もう情報を入れたくない」と感じ始めると、不思議に眠れます。

「布団は悩む場所ではない」という思い切りは大事です。どうしても何かを考えたくて寝ていられなくなったら、起きだしてノートに向かって悩んでください。そっちの方がずっとマシです。ノートを書くのもめんどくさくなって寝たくなれば一番いいですね。五月病の本体は朝にあるのではなく、どちらかと言えば夜にあります。22時に安眠することが出来れば大体大丈夫なんです。いいから悩むな、寝ろ。そういうことです。このブログ読み終わったら寝ましょう。何なら続きは明日読んでもいい。

 

これだけできればOKというルールを定めよう

それでも、なんとか出社したはいいけれどモチベーションがまるで上がらない、ということもあると思います。そういう時に限って悪いニュースは飛び込んでくるし、先週自分で埋めた地雷は爆発します。しかし、そういうのは今は仕方がないことだとあきらめましょう。だってあなたは五月病なんです、出社出来ただけ大したものです。上司に怒られようと、多少評価を下げられようと「最低限これだけ出来てればとりあえずは良い」と自分を許すことが大事です。なにせ、自分を責めたところでどうにもならないわけですから。自分を責めてモチベーションが戻るならとっくの昔に戻ってる筈です。やるだけムダです。そんな自己満足はやめて、最低ラインの維持だけに力を注ぎましょう。

加えて、「他人に愛想よく接する」ということを「最低限」に組み入れられれば尚ベターです。大きな声で挨拶する、大きな声で返事をする。なるべく機嫌のいいフリをする。新卒ならこれさえ出来てれば5月で完全にアウトになるということはありません。実際、これはかなり不思議なんですが、僕もどれだけボロクソの状態でも上記までのことは出来るようになりました。社会人は大体身に着けてるテクニックですが、新卒の皆さんにとっても重要です。にこやかで快活なゾンビとして過ごせるようになってください。

 

モチベーションを戻す

つまるところ、仕事にモチベーションを戻すにはゲームに再び没入するしかありません。それは面白みを見出すことだったり、真剣みを取り戻すことだったりしますが、この状態に戻すには何はともあれ仕事をしなければなりません。

皆さんの中に、期日が三日ある課題を「一日だけ完璧に休んだら翌日から本気出す」という誓いを立てて、それを確実に実行出来る人っているでしょうか。たぶん、ほとんどいないですよね。僕も出来ません。結局、これは

決断のコストと先送りの問題の話 - 発達障害就労日誌

このエントリの話の変奏なんですが、一定時間現実逃避したらモチベーションが戻るということは僕の経験上まずありません。とにかくスケジュールを切る、タスクを細分化する、そして一つ一つ手につけていく。やっているうちに偉大なる過集中がやってきたら儲けものです。

仕事も同じで、まずは出社して一日の予定を立てる、現在与えられている業務を確認してスケジュールを作り直す。メールフォルダをチェックして返信する。モチベーションは結局のところそういったルーチンからしか生まれないように僕は思います。なによりモチベーションが枯渇した状態で、平常のルーチンが保てていることはまずありません。となれば、まずは比較的楽なところからルーチンを戻していくしかないわけです。

もちろん、ルーチンを戻せたからといってモチベーションが戻ってくるとは限りません。しかし、平常ルーチンに戻れば仕事の能率は確実に上がります。能率が上がってくればゲームが楽しくなってくる可能性も高いわけです。とても辛いけれど、再現なくこれをやるしかないわけですね。

そして、最後にちょっとした小技ですが、「ルーチン」の最初に少しだけ楽しいことを入れておくのがとてもいいです。僕の場合は「コーヒーを淹れる」ですね。勤め人の際は、職場についてまず缶コーヒーを一本飲みます。こういう、手につけるのに苦痛のないスターティングルーチンを一つ確立しておくととても便利です。ここから次の作業にシームレスに繋げればあなたの勝ちです。いいですか、職場についたら、あるいは職場の手前で缶コーヒーを一本飲む。それだけをやろうと思ってください。それさえやれれば大丈夫です。安心してください。

 

眠ろう、そして最低限のことをやろう

はい、そういうわけで皆さん寝ましょう。5500字もお付き合いさせといてなんですが、この時間にスマホやPCを睨んでいるのはいいことではありません。明日のことは明日のあなたが苦しむわけですし、皆さんに出来るのは明日のあなたの苦しみを最低限にしてやる気遣いだけです。

また、これらの工夫が一切の効力を持たず、布団から出ることですら地獄のように苦しい、そういう状態になった場合は迷わず有給取って心療内科に行きましょう。安定剤と睡眠薬で本当に楽になります。とにかく眠る、最低限のことをやる。平常ルーチンの一番最初を捕まえる。これだけ覚えておいてください。

 そして、最後にどうしても絶望感と不安に苛まれて眠れない皆さんに、莫大な借金を抱えて事業をコカした僕が迫り来る債権者や怒り狂う取引先へ出向く仕事を明日に控えて、何とか眠るために編み出した秘伝の技を伝授します。

目を閉じて、こう考えてください。「僕は今日死ぬ、このまま目を覚ますことはない。明日は僕の記憶を引き継いだまったく新しい自己がやっていく。僕の仕事は今日でおしまい」そういう感じです。そして、意識がバラバラになって自分が消滅していくのをイメージしてください。大変ペシミスティックな発想法ですが、事態が最悪であればあるほど、精神状態がグチャミソであればあるほど効果を発揮します。

本当に厳しい時、「死のう」と考えて自殺の方法やそれまでの下準備なんかをシュミレーションしてるときってなんか安らぎませんか?僕は一時それだけが慰めだったことがありました。あの時の不意に訪れる安らかさを利用して眠る技です。楽しいことも前向きなことも何もかも尽き果てた、そんな日にお試しください。

モチベーションが戻る日、再び熱狂がやってくる日がいつになるかはわかりません。でも、それがやってくる日までとにかく事態を最悪にさえしなければいいんです。転げ落ちなければまた追いかけられます。そして、そのうちに熱狂がなくても仕事がそれなりに出来るようになれば尚良いですね、僕は未だに難しいですが。それでは皆さん、おやすみなさい。

明日もやっていきましょう。